木の器

杉の無垢の皿をもらった。 このままだと使うと大変なこと(水やら汚れやらを吸ってしまう)になってしまうので、オイル(普通の油)を塗った。 今まで無垢の木材にオイルを塗ったことがあったのですが、杉がこんなにスポンジのように油を吸うとは知りませんでした! 塗っても、塗っても、表面でオイルが留まらない!!! ちょっと粘度の高い今の寒いシーズン固形化するココナツオイルならどうだろう? と、塗ったら、やっと表面が水を弾くようになった。 無垢のテーブルも以前オイルを塗りましたが、やはり広葉樹の木の密度と、針葉樹の木の密度は全然違うことを味わいました。 杉材は加工は楽でも、器とかには向いてないみたい。

本棚と人

人の家に行くと、ついその本棚を見てしまう。 本棚には、その人の興味の集大成がある。 この人は一体何に興味を持っていたのだろう? いるのだろう? 私の本棚は、大括りで 「レシピ・飲食マニュアル系・薬膳系」(カフェをやっていたときにすごく集めていた) 「クラフト系マニュアル」(要は、作り方がわかればなんでも自分で作りたいから) 「農業系」(いつかの自給自足のためにw) 「スピリチュアル系」(どうしてなんだか。この手の道に入ってきた。小さい頃「なんで?」って思った答えはここにあったように思う) 「俗世系・IT系」(税金とかパソコン関連の本、その他諸々の雑学系) 「美術館で買ったパンフレット系」(若かりし時に買わなくて未だに未練のあるのが、カルダーのおもちゃ箱展…w) ちゃんと「漫画」も読みましたよW で、どうも、マニュアル本が好きらしいW (いつかの自給自足のために。かな。) とはいえ、自分の時代・年代に添って、好みやタイミングで色々な本を読んだ。(映画も結構観たかな) 実のところは、本を読むのはあまり好きではなかった。 大学の頃に、演劇サークルだったので、その頃本を読む習慣がついたのかもしれないけれど、 かなりとんがってたので、安部公房だとか、遠藤周作だとか、カフカとか、シュールな本が好みだったかな。 今は辛くて、苦しくて、重くて読めない。W いつも、何かの「答え」を探していたように思う。 最近は映画も、本も、もう答え(結果)が大体見えるので、面白くなくて読まないし、観なくなったかもしれない。 普通にノンフィクションのドキュメンタリーの方が、よっぽど奇想天外で面白い。 そう考えても、本棚は過去形で、進行形ではないかもしれない。 人間の「今」に必要な情報が素通りしていくんだろう。 人んちに行って、本棚見て歩きたい。 そして勝手に想像する 「この人どんな人なんだろうな」 ってw

コミュニティーのあり方

工務店さんの餅つき大会で、原村に行ってきました。 のんびり行ったら、行った時には餅つき終わってて、餅だけ食べに行った的なw。 予報の天気では、雪が降るとか言われていたけれど、 どんよりながらなんとか降らずに我慢しているような空模様。 寒い。 でも、集った大人や子供達がワイワイ騒いでいる景色は、気温とは無縁で、 なんとも暖かな景色。 常日頃大人と接する機会が多いのか、子供達は臆することなく対等な話をしてくれる。 都会の子供は、地域によるかもしれないけれど、大人から話しかけたら返事しちゃダメよと教わっているから、なかなかこんなにフレンドリーな感じじゃないだろう。 (が、私の周りにいる子供達は都会だろうかどこだろうが、結構話してくれる子多いような気がするw) 犬も、子供も、ファーストインプレッションが大事。 瞬間の相手に対してのオープンさの感覚が鋭敏。 それゆえに危ない部分もあるのかもしれないけれど、無防備に心が開いていることが重要。 大人になっていくと、いろんな経験で人から裏切られたり、傷つけられたりで、 その「窓」がおおっぴらに解放されている人は少ないのかもしれない。 構えることで、傷つかないし、悲しい思いにもならないかもしれない。 けれど、それはなんの成長にもならない。 その閉じた窓をTPOで閉じたり開いたり、開いていても傷つくことのない強さを持ち合わせることが、 「心の成長」なのかもしれない。 その餅つき大会で、宝探しなるイベントがあり、隠してある札を探すのですが、 近くの子供に「私の分探して!」と言って、探してもらった札が以下。 意味深w 全ては自分次第。 何を選んでも、選択して進んでいくのは自分でしかない。 だったら、辛くても楽しい道を進もう。 と、毎朝、吊るしたその木札を眺めて、考えさせられる。 (おみくじ並に意味深な木札をくれた子供達に感謝w)

魔法ってこんなことなんじゃない?

私の知り合いに、魔法好きの人たちがいる。(大人w) 魔法の杖を作ったり、魔法の塩を作ったり不思議ないろいろをしている。 それはそれで、まあ、いいとしてW 私も小さい頃に魔女っ子メグやら、サリーちゃんや、ひみつのアッコちゃんとか、それはもう魔法に憧れたものです。 でもって、とある有名な「魔法の天使クリーミーマミ」のオリジナルビデオの最後の方、 主人公の優ちゃんが、魔法のステッキを持ち続けるか、手放すかの選択を迫られた時に、 「あたし、自分の魔法を見つけたような気がするんだ。  フェザースター(魔法をくれた世界)の魔法は素敵だよ。  でもね、でも本当に素敵なことなら、誰にもないしょにすることないと思う。  (人に言ったり見られたりするとNG)  みんなに教えてあげたいし、みんなで素敵になれたらもっと素敵になると思うんだ。  たぶん。俊夫(彼氏)が教えてくれたんだ」 と言って、魔法を放棄して、通常の生活に戻るのですが、その中で発見したことが、 「世界にはなんてたくさんの魔法があるんだろうって。いつまでも忘れたくない、  素敵なこと、素敵な夢、たくさんの友達。…。」とな。 魔法って、よりよく状況が変わることなんじゃなかろうか? だとすれば、汚い部屋を掃除して綺麗になった時のあの清々しい気持ちも、「魔法」だし、 喧嘩した友達や家族と、うまくいったりするのも「魔法」なんじゃなかろうか? それは見た目や、心や、体や、技術や、なんでもそうだけれど、一足飛びじゃなくても、 少しずつでも成長、上達することが「魔法」なんじゃなかろうかって。 おいおい、そうしたら、全員魔法使いじゃないの! シャランラァ〜とかは、一人しか使えないけど、地味な魔法なら全員できるよ。! ぜひ、使いこなして欲しいものです。 そんなこんなで、本気で怪しい「魔法本」を買ってみたのですが、 手に入らなそうなものばかりが書いてあるので、流し読みしつつ、ゲラゲラ楽しいです。

中心の資質

富良野と倉本聰さんのドキュメンタリーをやっていた。 富良野塾という、俳優養成システムがあったことはうっすら知っていたものの、 その卒業生達が、倉本さんに見出されて、俳優とはまた違った別の才能を花開かせていることに驚いた。 何か一つ、その人に合ったことを見つける。 俳優という道は、その途中のきっかけだったのかもしれない。 自分が「これがやりたい」と思っても、実際それをやってみて「合っている、合っていない」はわかるもの。 合ってないから「ダメ」でもなく、実際のところ、皆んな「何が合っているのだろう」と探しているのだ。 その人の中の、「これが得意なのでは?」を見つけることは、 何かのグループにおいて、そのリーダーに望まれる資質なんだと思った。 幅広い知識と経験、観察眼。 そして、考える力。 私もいろんな可能性を探して、あっちに行ったり、こっちに行ったり、いろいろな経験はしたと思う。 そして、いろんな人、いろんな仕事、いろんな遊び、いろんな勉強を結構幅広く貪欲に貪ったような気がする。 その幅があるから、人と会って、 「あ、この人面白いな。」や、「あ、この人伸び代あるな。」とか、「一体何考えてるのか興味あるわぁ」だとか。 まだまだ未知の可能性が横たわっていることに気がつく。 すべての総合芸術という分野に携わる人は、人間やその周りの出来事に、鋭い目を持っていないと表現が浅くなる。 だからこそ、「その本質」にたどり着くのが早いのかもしれない。 倉本聰さんは、思い立ったが吉日的に、周りを巻き込んで無茶なことを言ったりやったりする。 その物言いは、まっすぐだけれど、まっすぐだけだと面白くないよねというひねくれた角度も持っている。 純真と不純。 表と裏。 すべては一方向では終わらない。 でも、進むべき道はとても真摯にまっすぐだ。 だから、周りの人も安心して「困ったなぁ」と思いながらも頑張ってついていくのかもしれない。 何かの中心にいる人は、真実や安定を握りしめながらも、どんどん殻を脱ぎ捨てて刷新されていく力があるのかもしれない。 倉本聰さんご本人が絵を描いたり、森を作ったり、そんな創造性や審美眼にも、文章を書くときの緻密さと真摯さを感じた。 人間だろうが、自然だろうが、行き着くところは一緒なんだろうな。 そして、自分自身に対して、確固たる確信があるのだと思う。 ああ、こんな面白おばさんに私もなりたい。

「たい」の有無

韓流ドラマ「ホジュン」を観ていた。 ホジュンわかるかな?w 韓国の徳の高いお医者の波乱万丈記なのですが、 若かりし頃は人生がうまくいかなくてグレたりしたものの、ハタと我に返り医術一筋に生きるお医者の話。 その話の後半。 医者の最高峰、「御医(オイ・王様専属の医者)」になるのですが、 王様の崩御の責任を取らされて、斬首されてしまいそうになるのですが、(王様死ぬたびにかよ…) 次の王様はホジュンにお世話になっていたので、ホジュンを殺したくなくて「流刑」に。 流刑先で身の回りの世話といいつつ、偵察を命じられた奴隷女子がいたのですが、 その奴隷女子、実は医者の娘さんで、その父が倭国との戦争の時(豊臣秀吉め…)自国の兵士の怪我も治したものの、 戦争が終わって倭国の兵士も治したことがわかってしまい、斬首。 その時に母も亡くなって、天涯孤独になり奴隷になった。 だから医術の心得があったことをホジュンが見抜き、少しずつ医術を教え始めた。 でも、その女子が「医術を学びたい」という意志があったからこそ、ホジュンが見抜くことができたわけで。 何かを「し・たい」という気持ち。 何かを「食べ・たい」。 自分を「変え・たい」。 「見・たい」 「聞き・たい」 「経験し・たい」 などなど。 何かを「○○し・たい」というその「たい」という部分には、「意志」がある。 お腹いっぱいの人にどんなに豪華な食事をご馳走したとしてもそこに「たい」は含まれない。 口先で「勉強し・たい」とか言っていても、自身の「たい」じゃなくて、 誰かの希望だったり、誰かがなんとかしてくれるだろうと、自分で動かない、学ばない人にいくら手を差し伸べても、 徒労に終わることが多い。 いつまでも新鮮な「たい」を持ち合わせていること。 そんな人が自分であっても、他人であっても、一緒に楽しめる人だなぁとホジュンを見てしみじみ思う。

知識欲と経験のエネルギーバランス

誰かに頼るってすごく楽でいいですよね。 とはいえ、私は人に頼るのが苦手なので何かをやる時には綿密に事前に勉強したり、調べ物をする。 もしくは、人に仕事を頼む時にその「原理」や「方法」、「理屈」がわかっていないと、 最終的な「目的地=仕上がり」が煩雑になるので、リサーチする。 以前カフェギャラリーを始めた時も、事前に飲食の学校に行ったりして、あれやこれやと頭をひねって立ち上げた。 (その前身では、雑貨のネットショップをしていた。今思えばやってる人いなかったな…) その当時、この組み合わせのお店は少なかったと思う。(趣味的なお店はあっても本気のお店は少なかったと思う) だから、そのノウハウを聞きにいろんな人が訪れては、お茶一杯であれこれいろんなことを聞かれた。 (今なら確実にコンサル料くれっていうw) 最初のうちは、大変だったことやら色んなことをお話ししてあげていたものの、数が続くにつれて、 「皆んなどうして人の敷いたレールを走りたがるのだろう?」と、なんだか話すのがやになってきた。 それこそ、「楽だから(痛手の回避)」なんだろうなと。。。 ネットの仕事をしていた時も、最初は軽い仕事だったはずなのに、 「こいつ使えるな」って思われたが最後。 3人前くらいの仕事をドドンとさせられた。 (それも分野外の記事書かされたりとか、速報書かされたりとか、記者会見の動画撮影させられたり…。格闘技だったから寝技立ち技の勉強もしたな…w) そんなことが続くと、自分が時間やお金をかけて学んだ経験やスキルを、 お金(お小遣い?)で解決や、知り合いだからという理由で、能力を軽く使われることに疑問を感じるようになった。 それに、ここ数年ホロスコープに興味があったので勉強したものの、 軽く「見てみて!」という系統の人だったり、軽く「教えてよ〜!」という人たち。 興味があるなら、勉強しに行けばいいじゃん。やら。 本気で知りたいのかよ!とか、思ったりするわけで…。 「あ〜勉強する気ないんだ。」「本気で知りたいわけじゃないんだ。」と、 思ったら、テンション落ちるわけでw。 同ジャンルだろうが、別ジャンルだろうが、同じぐらい何かに没頭して勉強したり、感じたり、スキルが同じテンションレベルで話せる人と話す時はなんと楽なことか…。 って、こんなことを久々にブーたれてるのは、 以前「これやった方がいいですよね」って言ったのに、ものすごく叩かれて、 なんじゃそら?って思った素人さんたちがいて、その方達と仕事をすると、 私のエネルギーが削ぎ落とされる感じがしたので、 もういいやぁ〜って眺めていたのですが。 あれから1年。(きみまろ調) 今更ながら、「これやった方がいいよね」って、言い始めた…。 お金支払われたとしても、もう自分の気持ちが減る仕事はやらない。と、心に誓っているので、 絶対関わらない。(ってか、マネーはもらえる気がしないw) でもね、それってお金の問題じゃなくて、気持ちの問題。 火に油じゃないけれど、相乗効果じゃなくて、火に水をかけるのは、気持ち萎えます。 今、なんとも今後一生関わるであろう人の分別?が身の回りで起こっていて、 いやだなぁ〜と思ったり感じたりしている人とは、不思議に疎遠に。 楽しいことが始まりそうだなぁ、増えそうだなぁ〜という人とは妙な縁が繋がったり。 誰の仕業なんですかね?(私だがなw)

自分軸〜楽しいの線引きと金魚の糞〜

人間ってそんなに単純じゃない。 と、常々思っている。 なのに、すごく単純に見ようとしている人の発言は、 その物言う相手自身を、もれなく見ようという視点に欠ける。 でもって、かなり威圧的な「断定」をもって確定している気がする。 人それぞれの成長ポイントやスピードがあるから一概に言えないけれど、 成長点で「あのハードル超えた人ね」って思えるのは、超えた人しかわからない線引きだ。 明らかにものすごく頑張ってコツコツやってきた人と、ごまかしてきた人とではその言葉の端々に感じる 「物事に対する謙虚さ?誠実さ?」といいますか、リアリティーの内在性が全然違う気がする。 (自分自身を甘やかす傾向。。) 自分の手や、考えに対して、「知らない」や、「わからない」ということを自覚しているかいないか。 いつでも、「私は何も知りません」という目線でものを見る、興味を持つということと、 「そんなこともわかんないのかしら?」という目線では、学びの度合いが違う。 そういう人に限って、周りに金魚の糞的な人が群がっている気がする。 いえ、周りにいる人も自分探し(自分軸)道半ば、きっと頑張っていることなのでしょう…。多分。 「自分探し(自分軸)っ」てなんよ?って? 自分の考え、趣味、思考、etcが他人の価値観に犯されないってことなんじゃ?と、思っております。 それって、「楽しむこと」の線引きと似ている。 スキーに行くのに、スキーが嫌いな人と出かけないのと一緒だ。 自分の趣味嗜好、感情の琴線、一体自分はなんなのか?と、一つ一つ検証していく中で、 超えられるハードルを横目で見ている人と、「えい」と超えられる人の違いは、 「自分軸(大切にしなければいけない個性)」を理解した上で、弱点を超えられる人と肩を並べる方に重きを置くのか、 置かないのかなんじゃなかろうかと思う。 だからこそ、金魚の糞(俗に言うミーハー)をはべらしている人は、その状況を理解してないんじゃなかろうか? 金魚の糞の方を便利に使ってるんじゃなかろうか?と思う。(飴と鞭を使って、依存させたりね) それって「肯定」の立場に立たせて、弱点を見ないふりされてるんだろうなと。 一人じゃなんもできないのですが、基本は「一人」でも大丈夫な世界に居なければ、 超えられるものも、超えられないわけで。 弱点は最終的には強みになるのになと。 間違いを正してくれる相手=整った鏡。 白雪姫の魔法の鏡だ。 嘘偽りなく自分を見られる鏡。 周りにいる人、そして自分自身の心の鏡は、常に綺麗に磨かないといけないなと、 人のふり見て我がふり直せだな。と、思った今日この頃。

人間力(本質の見える時)

久々の友人宅に遊びに行く最中、車で事故った。 いつもながら、信号待ちをしている車になんとなくぶつかる系…。(油断しまくりです…) なぜ、止まっている車にぶつかるのでしょう…。(油断してたからとはいえ、こうなると、アホまっしぐらです…) 事故った直後は、人間ですもの。少しばかり手も震えるわけで…。 わざとぶつかった、故意にぶつかったわけじゃないのと、全くもって私の過失なので、 相手の方には本当に申し訳ないばかり…。 でもね、でもです。 こういうときこそ、「人間力」が明るみに出る時なんです。 相手方も、初めての経験で少しパニック気味。(それも、わかってる。) で、急いでいるのか?落ち着いてはいるものの、パニック中の私に畳み掛けるように質問。 要は、保険に入ってますか? 入ってないの?的な質問。 私も悪いのですが、パニック中でワタワタして返事しかねていたのですが、入ってました。 親に言われて「保険はお守り、入っておけよ。」という家訓がありますので、入っていたのも知っていたのです。 が、 いかんせん、「何保険?」という意味がわかっておりませんでした。(お恥ずかしい) で、今即答できない旨を先方に伝えると、「常識でしょ、入ってないとはどういうこと!?!?」的な畳み掛ける物言い。 要は、「あんた、車の修理代出せるわけ!?(お金あるの?!?払えなかったらどうしてくれるわけ!?)」的な意味らしい。 おいおい。今私のメンタルや行動は、起こった出来事に最高最善に対処しようとしているわけで、 悪意なんかこれっぽっちもないのです。 こういう時に、この人は相手を気遣えないんだな、って思った。(くれぐれも私が悪いんですが) 自分がもしこの反対の立場だったとして、同じ態度をとるのかしら?、と。 人間、一番パニックに陥っている時ほど「本性」が出る。 いつも「この人はいい人だ」って言われている人が、実は天変地異でパニック時にどういう人になるのか? 割り込む人、怒る人、人を押しのけて自分が良ければ良いという行動をとる人。 この行動の先に「自分(もしくは自分の身内)だけが助かれば良い」という考えがあるのじゃなかろうか? ひいては、命の瀬戸際。 自分と相手の命をかんがみて、相手の命を優先できる人って、「神様」なんじゃなかろうか?と。 起こってしまったことは覆水盆に返らずで、どうにもならないことだとわかってます。 だとしたら、お金と命、天秤にかけつつも、「とりあえず、お互いに『怪我ありませんでしたか?』が、 人として一番大切なことなんじゃなかろうか?と、すごく考えさせられました。 大変な時こそ、その人の本質が見える。 自分のメンタル修行としては、そうじゃない人と出会った時に、 なんじゃそら?とつい口に出さないことさえできれば「神様」に一歩近づけるのかと…。 (その前に、ぶつからないシステムを車に導入せねばなるまい…)

スタンドプレイから生じるチームワーク

って、攻殻機動隊の荒巻さんが訓戒みたいにいつもつぶやく言葉ですがw 今観ても褪せることのないすごい内容のアニメですね。(政治問題とかの腐敗っぷりとか今となにも変わらない) 何度となく繰り返しつい観てしまう。 よく、学校とかで教わるチームワークは まとまりの中で「輪(和)」を乱さない。 ということが重要視されるために、その個人個人の頭をどんぐりの背比べのように上から叩く。 そら〜も〜ゴンゴンと。 そして、底辺の人、もしくは、平均的な価値観でくくる。 自分の個性が潰されるんですから、苦痛でしかないわけで。 大学が美大だったので、周りの人ほとんどが個性があったが故に、いじめにあった人が多く、 飲み会でいじめの話になると花が咲いていたw とあるブログ記事で、美大系の人と工学系の人達が新商品の開発のチームを組んだ話があった。 美大系の人たちが、「こんな感じがいいよね〜」という、得意のニュアンスをもちだしたところで、 工学系の人たちは、「具体的に話して欲しい」という。 美大系の人たちはなんとなくお互い理解しつつも、実は全然違うイメージをそれぞれに持っていて、 それをお互いにすり合わせをすることで、一つの実体にしていく。 なので、アイデアは無限大だ。 工学系の人たちは、ディテールを理解しないと全体を作り上げることができないので、 木を見て森を見ずな感じとなる。 でも、無理難題を解決する力はピカイチなので、美大系のニュアンスを具体的に仕立てる力を持っている。 創造するということは、お互いの「良いところ」を尊重してすり合わせることなので、 それぞれの100%が合わさることで200%にも300%にもなる。 だから、個人個人が最高最善じゃなければいけない。 そして、自分ができなくても「この人なら…」と、思える信頼感。 依存じゃなくて、誰かを頼り、誰かに頼られる。 これこそ、スタンドプレイから生じるチームプレーだよね。 まだまだ依存感が抜けない部分は、まだ私の未熟なとこでしょうが、 頼れないじゃなくて、頼ることも大切なのだなぁと最近思い始めた今日この頃。
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