分かれ道

10年来の知り合いの人と、久々に会った。 久々の分だけ、会わなかった間に何があったのか話をした後、 普通の話に戻っていく時間があった。 会わなかった間分、お互いの好みや考え方は変わってきているのかもしれない。 なんてことない話が続いた頃、相手がずっとあの時間から変わらず 同じ自分を主張しているのに気づいた。 以前に、その人の人生にまつわる一件に介入したことがあり、 こじれたそれを心の片隅で気にしていた。 でも、少し前に会った時には、その人がその人自身で選んだことだから 私はきっかけに過ぎなかっただけで、そのこじれを相手に委ねたことで結論をつけた。 その人は、いつも正しいことを言っている。 けれど、誰かが自分の意見や好みと合わないからといって、 それを否定することに注力していることは、相手が変わらなければいつまでたっても否定し続けなければいけない。 あら? 前は「そうだね〜」と同意していたけれど、 今の私は「相手は変えられない」ということを理解した上で、 そこに自分の気持ちや時間やエネルギーを注力しなくていいことを知っている。 なんだか見定める方向が変わってきたなぁ〜と思った。 自分が変わるたびに、出会う人、一緒にいる人も変わってくる。 こういうのが人生の分かれ道なのかもしれない。 人は繋がっている。 会わない間にまた、その人はどう変わっているのだろうか? 変わっていく思考や考えの先で、また会えたらいいなと思った。

成長するには、安全?・修行?どこを選ぶんだろう?

小難しい話をつねづね頭の中でこねくっているわたくしですが、 「成長する」ということが、出世のことなのか?何かができるようになることなのか? はたまたよく言われる、 「精神(魂)の成長」だとして、それは「痛い目」をみることで成長すると言われていますが、 何から何まで痛い目見なくてもいいんじゃないか。と。 人は一人ではないので、社会の中で色々あるわけですけれど、 その中で確固たる自己がない人だと、他人の意見に流されたり、依存したり、依存されたり それが「成長」にとって手枷足枷になる。 確固たる自己への自信って、だったらどうしたらいいのだろう。 それは「肯定される」という経験なのではないかと。 家庭という経験は、一番初めの社会経験の場だと思うのですが、親が子供の主張をのびのびと育ててくれた人と、 親の思い通りにするために(要は石橋を叩いて渡る=愛情の裏返しなのですが)子供の意思を否定した人。 どっちらが「魂の成長」なんでしょう? 修行的には「否定された子供のほう」だと思いますが、仏教の中で「悟り」の境地は「否定の意識がなくなり全てが肯定の意識に変わった状態」とか言われちゃうと、辛いことも通り越して最終的には「のびのび」な状態になるんじゃね? とか、思ってしまった。 まあ、なんでも経験なのですが、暖かい家庭と、そうでない家庭。 どこをどう通っても、「悟りの境地」が最終ミッションなら、暖かい家庭でもいいんじゃね? 意見がぶつかり合うことで、解決がもたらされるのではなくて、平行線だとすると、 まとまることで問題解決の糸口が増えるほうと、減るほうだと、解決できるほうがよりいいのではないだろうか? 要は、最終的に社会や団体や家族がまとまった時に、お互いの主張が解決されるほうがより良いはず。 意見は違っていても問題ないけれど、それが利己的ではなく、利他的になり、 それはお互いを肯定しあう、ひいては、自分自身の肯定に繋がっていくのではないだろうか? 意見が通じない、言うことがためらわれる、言ったら否定される、という団体の中で、自分を発揮するのは難しい。 やはり、団体になった時のそれぞれの人間の懐の深さ。 先日見た「アベンジャーズ」もお互い意見の食い違いはあっても、最後「地球の存亡」とかなので、 折り合いつけてたしw これからの自分の実験としては、その「安全な場」を作ることのような気がする。 違う意見。だからより良い意見になる。 自分としては、当たり前だけれど、思ったほど当たり前じゃないんだなと思う今日この頃。

間違うこともたまには正解?!

旅先からの帰り道。 高速道路の大渋滞にはまった。 通常だったら30分とかからない距離を、3時間近くかかって(全部の時間からするとその3倍くらいで)帰ってきた。 最初は悠長に構えていたものの、あまりの進まなさに余裕もなくなり、車内のムードもギスギス。 ちょっとしたことでも怒りのスイッチになりかねない状況。 自分のせいでもないものに、「自分のせいなのか?」と自問自答したり、落ち込んでいた。 行き場のない怒りで、楽しかった旅行やお土産を選んで帰る気分も台無し…。 で、そういえば、カーナビが正しい道を指し示し「こっちです!」と言われるままに進んでいるときに、 同乗していた人が「こっち間違ってない?」と言ってきた。 カーナビの言われるままに進んでは来たものの、確信がないのでパニックになっていたのですが、 高速道路はすぐに元の道まで戻れないw 行きに来た道と帰りの道は景色が違うので、正しい道にきているとわかったときに、 「正しいじゃぁ〜ん!」と言い返した。 そのときに私はこう言っていた。 「間違った道に進んでいたとしても、遠回りでも帰れるけどね!」 高速道路なので、分岐点のチョイスは一瞬の閃き。 でもたどり着くところは実は同じ。 その間をどう過ごせるかというだけの事実。 片方の経過は、片方の経過の観察でしかない。 正しいけれど渋滞にはまった道と、間違っていてスムーズに通れたのに「間違った」と思った道。 瞬間の選択でこんなにも変わるし、もし反対の道を選んでいたら見方も変わったかもしれない。 正しいとか正しくないとか、選択の瞬間、今自分の選択した物事に確信を持つ。 間違うことは間違いじゃなくて、正解なのかもしれない。 そんなことを思った。 それにしても、渋滞を引き起こした人が、これだけ人様に迷惑をかけていること理解しているのかしら? 安全運転を心がけていて、こんな事故になるはずもなく…。 高速道路の便利さを不便にしないでいただきたいですわよねぇ。

旅の友 旅は道連れ世は情け

この度初のエジプトに行ってきました。 いや、これがものすごく楽しかった。 マニアックな旅だったのでどうなることやらと思っていましたが、中々色んなことを考えさせられた旅でした。 で、旅の思い出話をしようとしているわけでもなく、 私はちょいちょいツアーに参加するのですが、ツアーは誰一人知り合いが居るわけではないので、(居る場合もあるけど) どんな他人と相部屋になるのか?とか、自分と相手の間合いをどう計ればいいのか?とかがネックになってきます。 それってちょっと家族と似ているかなぁと。 限りなく短い家族生活的な関係? 逃げるに逃げられない状況で、いかに楽しく、いかに問題なくを心がけて旅をする。 短いながらも不平不満はあるもので、これがもうちょっと長い旅路ならばきっと何かが勃発する?W 感じを孕んでおりました。W 仲良い人ですら「おいおいそれはないよ」とか、「それは譲れない」的なことはあっても、最終的にお互いに伝え合って問題回避をするはず。 ましてや、他人にそれを伝えることの困難さたるや…。 言うは一時の恥 言わぬは一生の恥 (これは「知りません」とか「わかりません」とかは早めに言えってやつですが) 言ってあげたほうが良いことも、いらぬお世話かなぁ〜と言わなかったことが少し心残りになったりして。 だんだん大人になると(なってるのか?)言わないで気づくまで見守ろうというスタンスに入るような気がします。 本人が気づくまで。 言ってもらったほうが楽かもしれないけれど、多分それは本人の為にならない。 だから、本当のところ、自分も誰かにそんなこと思わせてるんだろうなって思ってますW。 でも、なんでもロールプレイングゲームの主人公ばりに、大変なことも悲しいことも怒りも、全てが「面白い!・楽しい!」に繋がっていれば問題ないのかな? 旅をするごとに人と合わせるとか、他人から教わるとか、要は人間はどこいっても人間だなって思わされます。 楽しむってことが苦しむだけじゃないってことだけはわかって欲しいなって思った旅行でした。 ちなみに、この旅は過度なスケジュールでボロボロの体をいたわりながらだったからか、皆んな気を遣える素敵な方達ばかりでした。波乱万丈な面白ネタもたくさんあったし、たくさん笑った。そして、落ちるように寝たW 辛いことも、笑いに変える。 これぞ人生の醍醐味。

ミーハーの人が苦手な訳

ミーハーとは 世の中の流行や芸能人の動静に今まで無知の人が熱中したり、影響を受け知ったかぶりの行為をする者(主に若年の女性)に対しての呼称である。通常はカタカナで「ミーハー」と表記するが、かつてはみいはあ、みいはあ族などと呼ばれた事もあった。 昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。現在では男性にも使われる言葉である。最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味でのものがほとんどである。 wikipediaより引用 ミーハーの語源が「meher」(私彼女)で驚いたw いや、それはさておき。 私の知り合いだろろうが、他人だろうが、どうにも苦手な人種が、ミーハーな人々です。 ずっと、ず〜〜〜っとなんでだろう?と思ってはいたものの、掘り下げていなかったので、 ちょっと掘り下げてみようと…。 虎の威を借る狐的に、ミーハーな人は自分の価値を他人の価値で補完している人なのかなと。 だから、その虎的立場の人が何かの拍子に陥落失墜した場合、狐的ミーハーな人たちは手のひらを返したように退くんだろうね。 ということは、ミーハーであるということは、 自分は虎にはなれません宣言をしていることでもある。 「世界に一つだけの花(SMAPの歌だね)」 それぞれが違って美しいという私の持論からすると、 そこにその人がある、それだけど素晴らしいということ。 お釈迦様の教えだねw 誰かと自分を比べる必要なんかない。 自分を精一杯表現している人に優劣なんかない。 はずなのに、何故だか世界は「優劣」で成り立ってるんだよね。 お金がある人。 才能がある人。 地位の高い人。  等々 自分が満たされていれば「優劣」なんか気にならないはずなのに、現代のシステムでは「優劣」が気になるようにできている。 それは「心理操作」が行われているということ。 お金がないと不幸。(お金なくたって幸せな人はたくさんいるけどね) 才能がないと不幸。(本当はなくったって幸せなんだけどね) 地位の高い人。(地位が高くったって幸せとは限らないし) 優劣を操作することで、見えないところの誰かが儲かるシステムだから。 要は、流されやすいことで、実は不利な状況に陥っているわけ。 ミーハーの人は、状況に流されやすく、その利益のおこぼれを享受するために打算的にもなる。 利用価値がある虎に、近寄る打算で近寄る狐。 怖いわぁ〜。。。。 その人の持っている「弱さ」と向き合うことが、本当は力になるんじゃないかと。 そんな弱さも、神様的な人たちはきっと 「幼き子よ、かわいいねぇ〜」 で済まされてしまうことなんでしょうけど、 意外にこれ害悪の種なんじゃないかと思います。 できる限り少ない方が美しい。。。 人と会う時に、私は相手の肩書きや、才能、お金の無い状況をシミュレーションします。 (シミュレーションするまでもなく、面白いか面白く無いなんですけどねw) 相手から何にもなくなった時に、この人に興味が持てるのか? 苦労をした方の言葉は、本当に慈愛に満ちいることが多い気がしますが、 それは誰かを何かの価値基準で見るのではなくて、人間として見られる目があるからかもしれません。 くれぐれも、ぶれることなく筋の通った自分で居たいと思います。 ミーハーの人と仲良くするのは疲れる(←!)ので、遠巻きにさせていただきます。

「自由」の流れに乗るために

ジャニーズグループの嵐が2020年末で活動休止を本日宣言した。 大相撲最終日、千秋楽の玉鷲が優勝のニュース速報直後だったのでつい笑ってしまった。。。 で、なんだ ? とおもって、ググってみました。 2017年6月、グループのリーダー大野さんの「何事にも縛られず自由な生活をしたい」という話がきっかけらしい。 そこで、ホロスコープをみてみると、2017年に入った初旬に、N月に対して天王星がスクエアを取り始め、2020年で抜ける。 それ以外でも天王星が、他の星々を刺激している。 天王星が牡牛座に入り、「価値」や「豊かさ」の定義が変わり、牡羊座天王星時代に「自分とは?」と追求したものを糧に、「価値観」の表現や書き換えが7年に渡って行われる。 すごいタイミングとマッチしていて驚いた! 大野さん自体が繊細な方なので、多分時代の雰囲気やエネルギーを感じていたのかもしれないことは、さすが芸能人!と思わされました。 色んな方がこの時代の天王星の流れを書いているので、ぜひ一読してみるのおすすめです。 で、これからやらなければいけないこと。 牡牛座=豊かさ、繁栄、安定、五感、芸術、審美眼 という意味合いがあるのですが、天王星が来ることで、今までの価値観を超えて新しい価値観が出現します。 今までの価値観にとらわれず、自分自身で新しい価値観・幸福の基準を作っていくことになる。(もしくは、社会的にもドンガラガッシャン的な出来事があるかもなので要注意w) 自分にとって 何が楽しいのか? 何が豊かなのか? 生きることを楽しむために、これまでのスキルを査証して、再構築する。 できない、やらない、じゃなくて、やっちゃうことができる時代(流れ)なのです。 個人的には、大野さんは2025年あたり、何かやってくれるんじゃないかと睨んでいますw それぞれの「自分の新しい幸せや楽しみを表現」が、嵐でどんな風に科学反応するのでしょうね?!

前向き後ろ向き・言葉と心

よく 「言葉には魂が宿る」 と言う意味で言霊という言葉が使われていますが、 それを意識せずに、言葉を使う人が多い気がします。 言葉を丁寧に話す人、投げやりに話す人…。 言葉を発する時に、ポジティブなことを言うのか、ネガティブなことを言うのか、 自分のことを思っているのか、いないのか、 相手のことを思っているのか、いないのか。。。 最近市原悦子さん(女優)が亡くなったことで、追悼番組が良く放送されていたのですが、 日本昔話というアニメの声優をやっていた時の声色の話をしていました。 司会者:「ものすごい声色が色々ありますが、あれはどのように設定しているのでしょうか?」 市原:「自分では思いもよらないキャラクターの時もありますが、    身の回りのいろんな人をイメージしてみたり、    そのキャラクター(物)に思いを馳せてみると、自然にその思いの声色が出てくるのです」 音には、言葉の意味だけではなく、感情や色々な情報が乗るように思います。 小さいのか、大きいのか、弱々しいのか、剛力なのか、古いのか、新しいのか、痩せか、太っちょか、女性なのか、男性なのか等々。 自分で言うのもなんですが、楽器を習っていたので俗に言う「耳がいい」方で、 音の状況(ニュアンス)に対してものすごく敏感です。 その昔声優になりたいと思っていた時期もあり、そのキャラクターのイメージに合わない声優さんがいると、残念な気持ちになったり、うまい役者さんがいると他の役の時にはどんな声になるんだろう!と楽しみにしたものです。 それは、落語のそれとも似ているかもしれません。 音だけで、その人物、キャラクター、性格、体格等、私たちにイメージを伝えなければいけません。 音楽の調べとも似ている気がします。音の表現とは、本当にすごいと思います。 そして、無意識に使う自身の言葉は、言い続けると 「定着」 するように思います。 それは潜在意識?とでも言うのでしょうか。。。 一言、嘘でも 「やれる!」 と言える人と、 「私は絶対できない」という人。 「私なりに頑張っている。(けれど、それ以上はできない)」みたいな。 やれること、やれないことは色々な制限があるので、一概に「絶対できる!」とは言えませんが、 ほんのちょっとしたことに制限を加える人は、その言葉の威力=心(思考)の威力に無頓着なのではないかと思います。 使う言葉を意識すると、自分の傾向と対策にも意識が向くのではないでしょうか? 変わりたいと思っている人ならなおさら気にしてみるといいのではないでしょうか? (プライドの高い人はネガティブ傾向が多い気もするw プライドなんざ裏のドブに捨てちまいな!W) あと、必要以上にポジティブなこと言う人も、要注意! ネガティブに蓋してます。 そして怖いから、ちらちら見えてるから、その祟り神様! wwwww チャンチャン。

理想の夢が見つかったけれども…

ただいま「アナスタシア」シリーズなる本を読んでいます。 もっか今出版されている全7巻の5巻めに突入中。 なぜこの本にたどり着いたかと言いますと、 物件購入した土地が下水がなく、浄化槽なるものをつけなくてはならず、 仕組みを見れば見るほど どうしたらもっと自然に優しいものがあるのだろう? と探していたところ、工務店さんが教えてくれた細菌を使った最新の浄化システムがあったので、そのホームページを読み込んでいたところ、謎の文字ロシアのアナスタシアが出てきたのです。 なんじゃ? ロシアのアナスタシアって ??? と、ネットの海をダイブしたところ、出てきました。 本。 アナスタシアが語ることを、アナスタシアと出会ったロシアのおじさまが書いています。 一応ノンフィクションなのに、フィクション?と見まごう内容でありつつ、 今の今まで「不自然だよなこの世の中」と思っていたことに確信が持てるようになった。 話せば長いし、まだ本も読んでいる最中の道の途中。。。。w にて、もうちょっと読み進めてからおすすめしたいのですが。 とりあえず本当に私としては、目から鱗の、ハウツー本でした。 スピリチュアルの勉強をしていた時にも、そのサイキックな先生がロシアで受けたサイキックの学校の話だったり、ロシアの科学研究が紐解くかなりキテレツなトンデモ話も聞いていたので、あながちこりゃまじかもなぁと興味津々なロシアの素敵話が綴られます。 その中でも、「一族の土地」なるものがあるのですが、 現代はお金のシステムの中で暮らしているのですが、どんどん生活の中での便利は増えているものの、一つも心が豊かじゃないのはなんでだろう?と思いますよね。 父や母が子供のために木を植え、家を立て、野菜を育てるための1ha(ヘクタール)の土地を丁寧に育めば、そこは、生きることに不安のない一族のシェルターになる。 それが、都会にいる一つ一つの家族に起これば、それは、飢えることで誰かを傷つけることも、奪うこともない平和のサイクルが始まる。的な内容。 といって、この下りはこんな単純な言い回しではすべてが説明できるはずもなく。 少しなりとも興味がある方は読んでみてほしいです。 夢を描くこと、願うこと。それは、そこにそのものが存在する創造の力になる。 そこに核兵器があるのも、原子力発電所があるのも、そこに誰かが「あれ!」と願ったからだ。 願うことの力は小さいけれど、それが集まれば大きな願いとなる。 そんな中で、自分がこれからどう生きていくかの? と、考えた時。 確かに不安のない場所、生きるのに、食べるのに、困らない場所があること がとても重要なのだとすると、まずは自分が震源地として 「一族の土地」の小さな願いになればいいのでは? と、思ったのでした。 お金がないとできない。 と、本の中でもなんども本の著者、メグレさん(ロシアのおじさん)が否定する(このおじさんは否定しまくる現実派)のですが、要は時間と手間を惜しまなければ、そしてそれがメンテナンスを必要としない自然の営みの中のサイクルが正しく機能すれば、より一層強く楽に、回っていくことに気づいていくのです。 私たちが自然の営みをぶった切ってきたこと、自然のサイクルを破壊してきたことでいろんなマイナス面を生んできたことを理解しなければ、何も始まらない。 確かに、ほっといてもうまいこと自然が回っていれば、食べられそうなものは生えるのです。 現に、私はニラが好きで、「植えたらごっそり食べられる」と目論んでプランターで植えたものの、何かの加減が悪く、硬い葉っぱで食べられたものではなく、そのまま食べずにほっておいたところ、花が咲き、種ができて、それから何年もベランダの絶妙な、水の流れる先に溜まった土やコンクリートの隙間や、隣のプランターでものすごく美味しそうな葉っぱを生やしておりますw 私が植えた時よりもそれはそれは、美味しそうです。 自然のサイクルの中で、私たちが寄り添って、人と人が寄り添って生きられるところ。 こんな夢を今歩き始めましたが、まだちょっとメグレのおじさま気分が抜けず。 お金大丈夫かなぁ〜とか、ダメだったらどうしよう…とか、結構ネガティブに振り回されますが、 周りの人たちも巻き込みつつ。 夢実現をふらふらと漂っております。 アナスタシアありがとう。(まだ読んでる途中w)

ゴミ問題

中古物件を掃除しているのですが、これがなかなか厄介。 ゴミを出すこと自体を推奨していない地域なので、粗大ゴミをドンジャン捨てていたり、燃えるゴミですといってなんでも燃やしてしまえる都心とは違い、結構出せるものも限られています。 極力ゴミを出さない生活をと考えると、今の世の中の矛盾が出てきます。 生ゴミだって庭に埋めていただろうし、糞尿問題も「肥溜め」があって、再利用されていた。 テレビでスターバックスがストローを無くす!と宣言しているのを見た。 だからと言って、すべてのプラスチックから撤退したわけでもなく(売名行為?)、消費社会の中で便利という名の下に私たちが地球を汚す手伝いをしているとしか思えない。 コンビニで売っているペットボトルも然り。 いつも思う。 ペットボトルの中身、量り売りにしてくれないかなぁ… パッケージも然り。 中身だけでいいんだけどね なんでこんなにパッケージが多いんだろう…。(便利だし、綺麗だしね) 一週間でゴミ箱が満杯になるそのほとんどが、何かを包んでいたものだ。 昔は、お母さんたちが買い物かごを片手に八百屋さんや魚屋さんで買ったものは新聞紙とか紙袋に包んでくれてた気がします。 ビニールゴミが増えたのかしら、やっぱり。 私は犬の散歩の時にビニール袋を使うのでカバンの中にいつも忍ばせているのですが、 買い物の時に「袋いりません!」と便利に使えています。 最近のビニール袋はうす〜くなってすぐ破れてしまうのですが、昔の丈夫なビニール袋は何度でも使えるので折りたたんでカバンに入れておくのにぴったりです。 下手におしゃれな買い物袋だとかさばるのでとっても便利。 カバンに一つ、使用済みビニール袋でございます。 ゴミ問題は、スーパーも、コンビニもデパートもなくなって、便利なファーストフードもなくなって、 「便利」を捨てれば解決すること なんですけどねw (某ネット熱帯雨林とかもw)

納得の答え「家族とは」

またも、テレビ話ですがw 内田春菊さんが、自身が人工肛門になったその後のいろいろを話していた。 もとより、自身の生い立ちがかなり過激な方なので(DVとか)、 漫画を読むたびに「良いな」と「おいおい」が交互に顔を出す感じの内容だったのを覚えている。 で、そのお子様たちがインタビューにでてらしたのですが、 これがまた素晴らしいお子様たち。 春菊さんをみんな「かあちゃん」と呼んでいるのですが、 そのかあちゃんの色々な体験談を共有し、さらには自分達でその答えを考え消化している感じがした。 春菊さんちの家族像。 家は「エネルギーを蓄えるところ」 「何かあった時に逃げられるところ」 と言っていた。 そして、家族の中で守っていること ・謝る ・感謝する ・声を掛け合う があるそうです。 これ、当たり前で当たり前じゃない。 私の知り合いでもDV経験者はいるのですが、すごく自分自身を模索している方が多かった。 不思議なもので、DV経験者は同じような家族を形成することが多い。 でも、その負の連鎖を断ち切れた方達は、とても素晴らしい関係の家族を作られている。 もし、自分の家族の誰かを憎んだり、殺意を抱くようなことがあるのであれば、それはもしかしたら自分自身のものだけではない、ずっと面々と繋がれてきた「遺伝」なのではないだろうか? 意図して自分の中でその答えや回答に辿り着かなければ、問題は次の世代に引き継がれるのでは? 生きるって、苦しんでつかむこともあるけど、楽しむってことも残っているんだと思う。 当たり前の「家族」って、リーダーが必要だし、そのリーダーが理屈をわかってないと成り立たないのね。 そして、家族の中でも「相性」というものもあるから、家族の中で「分け隔てがある」と、思うのは、それぞれ「ジャンル」や「担当」があるのよね。と、春菊さんは言っていた。 だから、「あの内容の時はこの子」。 「この内容の時はあの子」って、分担があるから、分け隔てなく愛するとか思わなくって良い。 それぞれに得意分野があるから。って。 そらそうと、病気をした春菊さんがはまって(病気の前から?)読んでいたのが「遺伝」関連の本だそうな。 私も人間ってなんぞや?って思ってからいろんな方面を紐といていった中に「遺伝」ありました。 興味を持って調べていくと、いろんなところで繋がってて面白いですね。
en_USEnglish
ja日本語 en_USEnglish