アナと雪の女王2

ディズニーはなぜ歌うのだろう? 若干自虐的なプロモビデオみたいなクリストフのシーンは、 それを物語っているのでは?W ってことは置いといて。 アナと雪の女王2を観てきました。 本当は3Dを期待していたので、今回2Dでどこまで楽しめるのかしら? と思ったのですが、 個人的にはとても驚くシンクロが多くてびっくりしました。 スピリチュアル界隈では、「水は情報を持っている」ということは囁かれていたのですが、 まさか、アナ雪でそれがクローズアップされるとは思っていませんでした。 そしてこのところ、私の目の前に現れる「ケルト」的な情報がふんだんに散りばめられていてもはや 「ケルト方面、行くしかないのでは?!」という気分。 映画の中に出てくる四大元素「火・水・風・土」。 錬金術の要素ですよね。 魔法の根元はやっぱり「自然」なのですよね。 そして、その元素をまとめる中心に、もう一つ重要な要素がある…。 それこそが、エルサ自身が持つ力(「意識(愛)」) もともと、古代文化は自然の力と共にあったし、 それが、「魔法」だった。 そして、魔法に恐れをなした人間の「恐怖(畏怖)」から分離が起こった。 あの映画の女王二人がなぜ二人なのか?も、その分離の融合という意味で重要なのかもしれない。 さらに、全然関係ないところで、映画の予告で来年?ピクサーとディズニー合作の 「onward」(日本タイトル分からず)で言っていた内容に引っかかる。 昔は魔法が当たり前だった、今は魔法を忘れてしまった人たち(エルフ)が 魔法を使ってお父さんを復活させる。みたいな話? 共通内容として、 「昔はみんな魔法が当たり前だった」 けれど 「今は忘れてしまっている」です。 持論として、量子力学的にも、今科学で解明されていない「意識」のエネルギーなるものが気になっていまして、 この辺りあながち「魔法なんじゃね?」と思っている次第。 オラフが「永遠に変わらない」ってことはどういうこと? というようなこと言ってたと思うのですが、 オラフが魔法の力が弱まっていなくなっちゃうときに 「今わかったよ。永遠に変わらないものって『愛』なんだね」 って、物質は変化してなくなっても、意識はなくならない。 ましてや、水という存在に記憶があるのならば、すべての命は生きていることになるのですよ! すごくない?! って、スピリチュアル角度で観ない人にとっては、ど〜でもいいことかもしれませんが、 そう考えても良いのかもなって思った、個人的には久々にどど〜んときた映画でした。

ストーブを見に行ってきました

薪ストーブをいろいろ探していたのですが、「エコ」とかおしゃれ気分で使う人たちと違って、わたしは科学方面から 「どうしたら、無駄なく木を燃やせるのだろう?」 ということを調べていたら出てきたロケットストーブ。 で、見つけたストーブがあったのですが、世の中のロケットストーブと違って、 一見普通のストーブにしか見えない。 どうなってるのか不思議で、実物を見に兵庫に行ってきました。 日帰りの強行な旅でしたが、行きは期せずして富士山を上から見ることができ、 帰りは姫路城なんかも見るだけでしたが見学できてなかなか旅っぽかったw。 で、ストーブを制作されているNさんの制作現場へ。 そしてNさんのストーブ愛が、熱い! まずはロケットストーブの着火方法を見せてもらい、 その隣では、通常の有名ストーブの火も一緒に見せてもらう。 最初は同じ感じのように思っていたら、途中から空気の調整を加えると、 同じタイミングで入れた薪が、ロケットストーブのほうは燃え方がゆっくり! よって、燃焼時間が長持ち。(素敵〜!) そして、通常のストーブが煙突からそのまま熱が逃げてしまうところを、 ロケットストーブはワンクッションその空気を抱えることで、暖かさを逃がさないで再利用するので、 煙突からの煙の温度が低い。 そしてなによりも私が驚いたのが、「灰」。 よく焚き火をしていると、燃え残りの木とかが残留するのですが、 ロケットストーブの灰は綺麗なホワホワの真っ白な灰になっていたのです。 これなら、釉薬で使えるな…。ともおもったりして。 随所に色んな細かい趣向が凝らされていて素敵なストーブでした。 実のところ、ストーブがメインの仕事では無いので、クライアント(お客様)に媚び無い仕事をすることが、 Nさんのポリシーとのことで、ふわふわしたお客さんはごめんなさいするそうですw (私、大丈夫かなぁ〜w) とても真摯な仕事ぶりなので、実際に設置する前に現場に行って、 置けるのか置け無いのか、いろいろ吟味してから仕事に入るそうなので、 まだお眼鏡に叶うか、私のおうちにストーブつけられるのか?w 人柄も、ストーブもこだわりいっぱいの素敵ストーブ旅でした。

魔法ってこんなことなんじゃない?

私の知り合いに、魔法好きの人たちがいる。(大人w) 魔法の杖を作ったり、魔法の塩を作ったり不思議ないろいろをしている。 それはそれで、まあ、いいとしてW 私も小さい頃に魔女っ子メグやら、サリーちゃんや、ひみつのアッコちゃんとか、それはもう魔法に憧れたものです。 でもって、とある有名な「魔法の天使クリーミーマミ」のオリジナルビデオの最後の方、 主人公の優ちゃんが、魔法のステッキを持ち続けるか、手放すかの選択を迫られた時に、 「あたし、自分の魔法を見つけたような気がするんだ。  フェザースター(魔法をくれた世界)の魔法は素敵だよ。  でもね、でも本当に素敵なことなら、誰にもないしょにすることないと思う。  (人に言ったり見られたりするとNG)  みんなに教えてあげたいし、みんなで素敵になれたらもっと素敵になると思うんだ。  たぶん。俊夫(彼氏)が教えてくれたんだ」 と言って、魔法を放棄して、通常の生活に戻るのですが、その中で発見したことが、 「世界にはなんてたくさんの魔法があるんだろうって。いつまでも忘れたくない、  素敵なこと、素敵な夢、たくさんの友達。…。」とな。 魔法って、よりよく状況が変わることなんじゃなかろうか? だとすれば、汚い部屋を掃除して綺麗になった時のあの清々しい気持ちも、「魔法」だし、 喧嘩した友達や家族と、うまくいったりするのも「魔法」なんじゃなかろうか? それは見た目や、心や、体や、技術や、なんでもそうだけれど、一足飛びじゃなくても、 少しずつでも成長、上達することが「魔法」なんじゃなかろうかって。 おいおい、そうしたら、全員魔法使いじゃないの! シャランラァ〜とかは、一人しか使えないけど、地味な魔法なら全員できるよ。! ぜひ、使いこなして欲しいものです。 そんなこんなで、本気で怪しい「魔法本」を買ってみたのですが、 手に入らなそうなものばかりが書いてあるので、流し読みしつつ、ゲラゲラ楽しいです。

名言:アインシュタイン

気になるアインシュタインの名言集。 疑いもせずに「権力」を重んじることは、真実をもっとも遠ざける行為だ。 この世に存在する困難に直面し、それを理解しようとしたとき、自分の知能が全くもって役に立たないということに気づく。 人は、それを理解できる程度の知能しか持ち合わせていないのだ。 ナショナリズムとは幼児病で、言わば、人類が患う”はしか”のようなものだ。 空想は知識より重要である。知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む。 教育の目的は、「社会が直面する最重要課題の解決」に力を尽くすために、自ら考え行動できる人間を育てることでなければならない。 ほとんどの教師が、生徒に知らないことを発見させようと質問ばかりして、時間を無駄にしている。 知っていることに気づかせること、知るための方法に気づかせることを目的とするのが、意味のある質問であり、本当の教育だ。 幸せ者というのは、現状に十分満足していて、未来についてあれこれ考えたりしない。 重要なのは、疑問に思う心を失くさないこと。探究心は、存在しているだけで意味がある。 問題は、抱えた時と同じ考え方でいる限り、解決しない。 人類は行動を起こすものだ。たとえ何も見つからなくても、成功はそこにある。 教育とは、学校で学んだことを一切忘れてもなお、覚えているもの。 過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。 大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。 何も新しいことに挑戦しなければ、挫折を経験をするわけがない。 他人のために尽くす人生こそ、価値ある人生だ。 自分の目でものを見て、自分の心で感じる人間が、どれほど少ないことか。 成功者ではなく、価値ある人間を目指すべきだ。 どんなに実験を繰り返しても、私が正しいことは証明できない。けれどたった一度の実験で、間違っていることは証明できる。 シンプルに説明できないのなら、それは十分に理解していないということだ。 優れたアイデアを記録したノートを持っているか?と問われれば、「生涯で持ったノートは1冊しかない」と、答えるしかない。 真の知性とは、知識ではなく想像力だ。

中心の資質

富良野と倉本聰さんのドキュメンタリーをやっていた。 富良野塾という、俳優養成システムがあったことはうっすら知っていたものの、 その卒業生達が、倉本さんに見出されて、俳優とはまた違った別の才能を花開かせていることに驚いた。 何か一つ、その人に合ったことを見つける。 俳優という道は、その途中のきっかけだったのかもしれない。 自分が「これがやりたい」と思っても、実際それをやってみて「合っている、合っていない」はわかるもの。 合ってないから「ダメ」でもなく、実際のところ、皆んな「何が合っているのだろう」と探しているのだ。 その人の中の、「これが得意なのでは?」を見つけることは、 何かのグループにおいて、そのリーダーに望まれる資質なんだと思った。 幅広い知識と経験、観察眼。 そして、考える力。 私もいろんな可能性を探して、あっちに行ったり、こっちに行ったり、いろいろな経験はしたと思う。 そして、いろんな人、いろんな仕事、いろんな遊び、いろんな勉強を結構幅広く貪欲に貪ったような気がする。 その幅があるから、人と会って、 「あ、この人面白いな。」や、「あ、この人伸び代あるな。」とか、「一体何考えてるのか興味あるわぁ」だとか。 まだまだ未知の可能性が横たわっていることに気がつく。 すべての総合芸術という分野に携わる人は、人間やその周りの出来事に、鋭い目を持っていないと表現が浅くなる。 だからこそ、「その本質」にたどり着くのが早いのかもしれない。 倉本聰さんは、思い立ったが吉日的に、周りを巻き込んで無茶なことを言ったりやったりする。 その物言いは、まっすぐだけれど、まっすぐだけだと面白くないよねというひねくれた角度も持っている。 純真と不純。 表と裏。 すべては一方向では終わらない。 でも、進むべき道はとても真摯にまっすぐだ。 だから、周りの人も安心して「困ったなぁ」と思いながらも頑張ってついていくのかもしれない。 何かの中心にいる人は、真実や安定を握りしめながらも、どんどん殻を脱ぎ捨てて刷新されていく力があるのかもしれない。 倉本聰さんご本人が絵を描いたり、森を作ったり、そんな創造性や審美眼にも、文章を書くときの緻密さと真摯さを感じた。 人間だろうが、自然だろうが、行き着くところは一緒なんだろうな。 そして、自分自身に対して、確固たる確信があるのだと思う。 ああ、こんな面白おばさんに私もなりたい。

「たい」の有無

韓流ドラマ「ホジュン」を観ていた。 ホジュンわかるかな?w 韓国の徳の高いお医者の波乱万丈記なのですが、 若かりし頃は人生がうまくいかなくてグレたりしたものの、ハタと我に返り医術一筋に生きるお医者の話。 その話の後半。 医者の最高峰、「御医(オイ・王様専属の医者)」になるのですが、 王様の崩御の責任を取らされて、斬首されてしまいそうになるのですが、(王様死ぬたびにかよ…) 次の王様はホジュンにお世話になっていたので、ホジュンを殺したくなくて「流刑」に。 流刑先で身の回りの世話といいつつ、偵察を命じられた奴隷女子がいたのですが、 その奴隷女子、実は医者の娘さんで、その父が倭国との戦争の時(豊臣秀吉め…)自国の兵士の怪我も治したものの、 戦争が終わって倭国の兵士も治したことがわかってしまい、斬首。 その時に母も亡くなって、天涯孤独になり奴隷になった。 だから医術の心得があったことをホジュンが見抜き、少しずつ医術を教え始めた。 でも、その女子が「医術を学びたい」という意志があったからこそ、ホジュンが見抜くことができたわけで。 何かを「し・たい」という気持ち。 何かを「食べ・たい」。 自分を「変え・たい」。 「見・たい」 「聞き・たい」 「経験し・たい」 などなど。 何かを「○○し・たい」というその「たい」という部分には、「意志」がある。 お腹いっぱいの人にどんなに豪華な食事をご馳走したとしてもそこに「たい」は含まれない。 口先で「勉強し・たい」とか言っていても、自身の「たい」じゃなくて、 誰かの希望だったり、誰かがなんとかしてくれるだろうと、自分で動かない、学ばない人にいくら手を差し伸べても、 徒労に終わることが多い。 いつまでも新鮮な「たい」を持ち合わせていること。 そんな人が自分であっても、他人であっても、一緒に楽しめる人だなぁとホジュンを見てしみじみ思う。

感覚言葉:歳

いったいどうして年上に思ったのだろう? その人をなんだかすごい歳とっている人だと思ったのは、 「すごいなぁ」と思う感覚があったから。 どんなに歳をとっていても、 「何言ってんだかなぁ」と思う人は、 年下に思えるんだよね。 「とし」って何だろうね? 重ねても重ねても、スカスカして重ならない空気みたいだ。 数えても数はなく、積み立てているのは気持ちかもしれない。

知識欲と経験のエネルギーバランス

誰かに頼るってすごく楽でいいですよね。 とはいえ、私は人に頼るのが苦手なので何かをやる時には綿密に事前に勉強したり、調べ物をする。 もしくは、人に仕事を頼む時にその「原理」や「方法」、「理屈」がわかっていないと、 最終的な「目的地=仕上がり」が煩雑になるので、リサーチする。 以前カフェギャラリーを始めた時も、事前に飲食の学校に行ったりして、あれやこれやと頭をひねって立ち上げた。 (その前身では、雑貨のネットショップをしていた。今思えばやってる人いなかったな…) その当時、この組み合わせのお店は少なかったと思う。(趣味的なお店はあっても本気のお店は少なかったと思う) だから、そのノウハウを聞きにいろんな人が訪れては、お茶一杯であれこれいろんなことを聞かれた。 (今なら確実にコンサル料くれっていうw) 最初のうちは、大変だったことやら色んなことをお話ししてあげていたものの、数が続くにつれて、 「皆んなどうして人の敷いたレールを走りたがるのだろう?」と、なんだか話すのがやになってきた。 それこそ、「楽だから(痛手の回避)」なんだろうなと。。。 ネットの仕事をしていた時も、最初は軽い仕事だったはずなのに、 「こいつ使えるな」って思われたが最後。 3人前くらいの仕事をドドンとさせられた。 (それも分野外の記事書かされたりとか、速報書かされたりとか、記者会見の動画撮影させられたり…。格闘技だったから寝技立ち技の勉強もしたな…w) そんなことが続くと、自分が時間やお金をかけて学んだ経験やスキルを、 お金(お小遣い?)で解決や、知り合いだからという理由で、能力を軽く使われることに疑問を感じるようになった。 それに、ここ数年ホロスコープに興味があったので勉強したものの、 軽く「見てみて!」という系統の人だったり、軽く「教えてよ〜!」という人たち。 興味があるなら、勉強しに行けばいいじゃん。やら。 本気で知りたいのかよ!とか、思ったりするわけで…。 「あ〜勉強する気ないんだ。」「本気で知りたいわけじゃないんだ。」と、 思ったら、テンション落ちるわけでw。 同ジャンルだろうが、別ジャンルだろうが、同じぐらい何かに没頭して勉強したり、感じたり、スキルが同じテンションレベルで話せる人と話す時はなんと楽なことか…。 って、こんなことを久々にブーたれてるのは、 以前「これやった方がいいですよね」って言ったのに、ものすごく叩かれて、 なんじゃそら?って思った素人さんたちがいて、その方達と仕事をすると、 私のエネルギーが削ぎ落とされる感じがしたので、 もういいやぁ〜って眺めていたのですが。 あれから1年。(きみまろ調) 今更ながら、「これやった方がいいよね」って、言い始めた…。 お金支払われたとしても、もう自分の気持ちが減る仕事はやらない。と、心に誓っているので、 絶対関わらない。(ってか、マネーはもらえる気がしないw) でもね、それってお金の問題じゃなくて、気持ちの問題。 火に油じゃないけれど、相乗効果じゃなくて、火に水をかけるのは、気持ち萎えます。 今、なんとも今後一生関わるであろう人の分別?が身の回りで起こっていて、 いやだなぁ〜と思ったり感じたりしている人とは、不思議に疎遠に。 楽しいことが始まりそうだなぁ、増えそうだなぁ〜という人とは妙な縁が繋がったり。 誰の仕業なんですかね?(私だがなw)

人生全てわかっちゃったら面白くないよねって話

本物のスピリチュアルの人を見たり知ったりしてしまうと、 イヤイヤそれ無理っしょな心持ちになる。 もし、自分の全ての人生が走馬灯のように分かってしまったとしたら、 その内容いかんにして、推理小説で言う所の「落ち」が分かった状態で本を読み進めなければいけないなんて… 耐えられないw ましてや、相手の全てが分かっても、どうすることもできないなんて…。 先日聞いたハワイの先住民族のスピリチュアルの最高峰のおばさまの話。 その方は、それぞれの人のそれぞれの人生が手に取るように分かるけれど、答えをダイレクトに言うのではなくて、これから先に起こる色んなことに対処して、力強く越えられるようにサポートしてくれる方だ。 でも、その部族では最高峰の長を選ぶ為に、イニシエーション(死にも匹敵する儀式)を行って、目覚めた子(生還した子)を長にするのだそうで、多分落ちたら死ぬよね的な滝壺の上から、3歳ぐらいで落とされて、生還した子がなるそうな。 そのおばさまは、その滝壺に落とされた時に自分の人生の最後までを走馬灯のように見た上で、受け止め生きる道を選んだ。 なんでもわかるからこそ、自分の娘さんがレイプされるのを分かっていても、母親なら子供が傷つくことを回避したいはずなんだけど、その一連の流れが大きな人生の流れの中で全て意味があることを分かっていて、そのレイプした男性も何故そのようなことをしなければならなかったのか、そのレイプで生まれてくる子もその母と父を選んで生まれてくることも分かっていたから、受け止めてサポートする立場を取った。 そしてある日、そのおばさまは子宮がんにもなった。 大事に大事にそのがん細胞を育てて、もうこれで限界!ってとこまで育てた。 本当はその部族は西洋医学の治療を受けてはいけない約束があったけれど、それはそれ。 そのおばさまは、腹部の癌の状態を逐一精密に絵を描いて、お医者もびっくりの精度で知らせて手術を受けた。 でも、手術は一切の麻酔なく、そして自分がその手術を逐一見られるように寝た状態ではなくて起きた体勢の状態で行われた。 歯に噛み締められる棒を咥えて痛みを堪え、無事手術は終わった。 その間、おばさまは世界の全ての女性の癌の痛みを癒す為に、祈っていたそうだ。 術後は病院にはもう用事はないからと、さっさと帰って部族の治療で癒したそうだ。 人間だったら、痛くないほう、怖くないほう、悲しくないほう、を選びがちだけれど、 そこから得られる経験の大きさってきっとやっぱり意味があることなんだって思えると堪えられる。 「神様はその人に耐えられるだけの痛みしか与えない」 そして、「誰かと自分を比べて優劣をつけることが大切なのではなくて、それはそれぞれの「個性」だ」 って聞いたことがあります。 何かしら今の自分がここにある意味。 すんなり見つからない。 だから人生って面白いんだろうね。
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