奈良でまたまたミラクル天気旅

前回登れなかった三輪山を目指して、またまた奈良に行ってきました。 今回もグレートなミラクル天気な旅でした。 今年の天気は雨続き。 今回もざっくり雨 or 曇りの天気予報。 東京から奈良の道中、足柄あたりで強風と雨。 滋賀あたりでスコール。 もはや天気を望めないぐらい気象が荒れ模様。 山登る時、どうなることやら…。 と、思っていましたが、奈良に近づいたあたりで、右側から太陽がさしてきて、左を眺めるとどんより黒い雲が見えました。 だからとて、明日が晴れるとは限らない…。 奈良駅で明日一緒に登る姉様達と合流して、夜ご飯を。 ちなみに明日は日中に満月での月食が起こるタイミング。 それも多分お山に登ったぐらい。 これはもしや、すごいんじゃないの?と、淡い期待を持ちつつ。 相変わらず雨や曇天で月は見られないだろうなんて思っていたら、ご飯の後、別々に別れた先でなにやら明るい光が…。 見上げたら満月が、絶妙に雲間から顔を覗かせてくれた。 焦ってカメラを向けるも、ほんのちょっとの間に隠れてしまった。 でも、見られて良かった。 朝早く待ち合わせて、車で三輪神社まで行くため、 (私が乗っけるので遅れたら全員遅刻になっちゃうから)早く目が覚めたので、東大寺にふらりと行ってみた。 大学の保養所があったので、うん十年前に来たことがあったのですが、今や近所はカフェやら素敵なお店がずらりに驚く。 東大寺の資料館?も併設されていて、その前にあった大仏さまの手が置いてあったのでパシャりが左の写真。 東大寺は当時正面から見に行ったのではなく、正倉院の真裏にあった宿泊施設からお散歩気分で東大寺に行ったなぁと感無量。 そんなに時間はないので、散歩がてらうろうろ。 そして、鹿の群れ半端ない奈良公園。 一度襲われたことがあり、それ以来鹿恐怖症ですが、油断しなければかわいい鹿達。 三輪山は、写真撮影がNGなので、写真はないのですが、登山口に行く前からなんとなくしとしと降る雨。 登山名簿に書き込んで登る直前には、もはや本降りなのでは?という感じで降り始める始末。。。 これはもう、神頼み。 晴れますようにと、私も祈っていたのですが、他の人たちもそう祈っていたのは同じ思いだから。。。。 初三輪山、であり、久々の登山。 足が大丈夫かなぁという感じで、登り始める。 重い。 自分の体w 何度か登ったことのある同行者に、「まだ?」「まだ?」と聞くこと数回。 その道すがら、なにやら神秘的な霞がかかってきた。 もはや晴れる気がしない。w 思いながらも登り続け、中腹の岩座に到着。 「この岩座以降は足取り軽くなるよ!」 と、言われてまさかぁと思っていましたが、あれだけ重かった足取りが、本当に軽く! なんだかんだで、山頂まで1時間ぐらいで到着。 で、その最中、ちらちらと太陽が覗いていたのですが、 山頂到着と同時ぐらいに パァ〜〜〜〜!!!っと晴れ!! 私たちのお願いがかなったけれど、さすがにこの一瞬ぐらいかもよ〜なんて言いつつも、こんな日の太陽はありがたいし、すごい嬉しい!! 帰りの山道も、軽い軽い。 のも、例の「岩座」まで。 不思議。 ここを境界に上が重力ちょっとおかしいんじゃない?的な。 そして、一緒に言った人曰く、 「いつもはもっと人で混んでいるけれど、今日はいい感じに空いていた」 だそうで、今日は雨が降っていたので、敬遠した人たちが多かったのかも。 私たちのために、わざと雨を降らせて人払してくれたんでしょうか…。 下山しても、燦々と降り注ぐ太陽。 その流れで、ご飯に行って、みんなの希望の神社にGO。 一言主神社 お願い事の仕方があるらしく、それがさも叶いました!というイメージとともにお願いするとのこと。 特に行った時、今後3年以内に叶うらしいと言われたのですが、わたくしめのお願い事は叶うのでしょうか? ちなみに、2023年に…。 高鴨神社 全国の鴨社の総本山。 とても気のいい神社でした。 神社巡りのこの1日はお昼からからからのピカピカの「晴れ!」。素晴らしい! 次の日は天川神社に行く予定で、追加の女性陣と天川で待ち合わせ。 天下は、シトシト。…

万引き家族を観終えて「家族と共同体の違い」

久々にDVDを借りて観た。 一時期は狂ったように借りまくって観ていた気がする。 でも、ある時からふと。 もしかして、パターンがあるのでは? と、気づいてから、大体その内容や筋書きが見えてきて、 大どんでん返しも以外に伏線が前に貼られているのに気づいたり、 おや?ドキュメンタリーとか、現実の方が奇なりで面白いのでは? と、映画を観る量ががくりと落ちた。 で、今回はたまたまただ券が手元にあったので、何か借りようかなと借りてみたもの。 家族とはなんぞや? の疑問符が考えの片隅にあって、いかなる話であろうか?という興味がほんのりあったから、で、観終えて。 誰と誰がどんな関係で、どうしてこのまとなりになったのか、 全員他人なの?一部は血が繋がってるの?とか、いろいろ詳細設定がわからず そこを紐解くのに少し内容への集中力が散漫になってしまったのですが。 映画って、かっこつけの部分が多すぎて、ほんまもんのおじい、おばあの話す内容の力強さとはやはり比べ物にならず。 それぞれの心情の細やかな奥行きは、時間的に説明が難しいのかな?とも思った。 家族問題を取り上げた映画は多々ありますが、今回のは「危うさ(揺らぎ)」の意味があったのかと勝手に思っております。 人と人の関係性の線引き部分。 自分が「家族」だよなと思ったところで、血が繋がっていないという事実は「家族ではない」というある種、線引きになる。 ましてや、お互いが生活を共にするということだけが「家族」の定義でもなく、じゃあ一体「なんなのか?」。 内側と外側。他人の芝生はなんとやら。 これって、「真実の愛」的に、普遍のテーマではなかろうか? それは、それぞれが「個」だから、さも相手を自分であるかのように扱えるか? ということなんだろうか? まったくクローンの同じ人間が生活を共にしたら、円満に解決することなんだろうか? その度に、マルコビッチの穴を思い出すw(結局全く内容のない話でしたがね、こちらは) 「家族」の血のつながりって、その「家族」の何かしらの「テーマ」があるように思っています。 それこそが、家族という共同体であり、見つめなければいけない自分自身の「良いところ・悪いところ」を見つめ修正し、確認するための共同体なのでは?。 子供は親に似る ということは、子供の良いところ、悪いところは、その一族が積み重ねた人格の歴史なのでは?と。 これは心の成長 = 進化!!! 円満な家族ってのがいたとしたら、相当過去の人たちが頑張ってくれたのかもしれない。 最終的に「個」であることを認識(認知)しつつ、「他」を認識(認知)することが、共同体であることには重要なんだよねきっと。 お金がないってこと = 生きていけない って、変な時代になったもんです。 お金のシステムは、一部のヒエラルキーの先端の人たちが、自動的に金儲けをするためのシステムなんですの。 今日、youtubeでそんなビデオを観てからのこの一本で、かなり脳内麻痺を起こしている今日この頃w

熊野の旅2

朝から豪雨です。 もう、行くのやめちゃおうかな?くらいの豪雨です。 でも、一応これから天気は持ち直す?(ほんとうか?)予定なので、とりあえず向かってみる。 案の定、雨。 そのまま、雨。 で、車から降り立った瞬間、ドド〜ンバリーンと雷が轟く。 危ないと思って、一瞬ひるんで車に乗り込んだのですが、そこから、あら? 雨止んだw またも、傘いらず。 その隙間からまたも差し込む太陽w 無事お参りを済まして、このところの過激な移動で犬も疲れ切っているので、 本題の三輪山を明日に控えているので、体力温存で奈良近辺の道の駅を目指す。 奈良にある道の駅は、ほぼ宿泊できない雰囲気だったので、その先にある大きな道の駅目指してゴー! 早々と就寝を目論むも、ここでもトラックのアイドリングに悩まされる。 トラックだけではなく、バイクもメッカらしい…うるさい 寝たのだか、寝なかったのか?万全ではない体調ながら、朝。 三輪山に向かう。 朝一番で近所に犬を預けて、エジプト仲間と待ち合わせ予定の現地集合場所へ。 と、ややや?!!!!!! これは!!!! 登れない!!!w とりあえず、現地で合流して登山口まで行く。 水を汲めることを事前に聞いていたので、水を汲んでお参り。 その登山口前で、こんな話を。 「なんだか今日の三輪山いつもと違う。ざわざわしてるよ。  だから登れないのかもしれないよ」 いつもは、もっとおだやかな感じらしいのですが、同行の方々は宇宙人系なので、そのザワザワがすごく気になったらしい。 私は背後がわさわさしてましたが、その手のことはわかったようなわからなかったような人なので、ほほうと頷いておりました。 私たちのメインイベントが、最初っからぽしゃったのでw どうしましょうとなったので、まずはその近所の古墳にお参り。 知り合い同士では「あ〜あの」というマニアックな場所。 長居をできるところでもないので、またも、どうしましょう。とw。 ならば、山の上の美味しいお蕎麦屋さんがあるとのことなので、行ってみる。 その真ん前に、これまたマニアックな神社があるので、そちらも参拝しましょうということに。 そばの写真は撮りそびれました。 でも、とても美味しかった。 エジプトから久々の再会だったので、あれやらこれやら、積もる話を話していたら、 あっという間に時間が過ぎ、あまり長居をしていると、お参りできなくなると真ん前の神社にお参り。 笠山三宝荒神神社。 重々しい高野山の雰囲気にも似た、神社でした。 そこから、岩船に。 サイズ感わからないので、同行のAさんが佇んでいるところをパシャり。 かなり大きい。 どんないわれがあるのか、調べてみたのですが、誰もその用途や出処がわからないらしい。 江戸時代の頃にはすでに観光名所だったらしい。 上の方は加工がしてあるのですが、 「覗いてみたいよね」 と、戯れに登ってみようとしたのですが、花崗岩で、表面がツルツルしているので、ロッククライミングの人じゃないと登れません絶対w そして、その脇には「登っちゃだめですよ」の立て看板もありますw はて、そのあとどうしようね?ということで、キトラ古墳に行ってみたのですが、 博物館は入れず、その脇の公園で、またもお茶とお菓子を買って来て女子会。 ただただ、話す。 いろんなことを、ただただ話す。 ただただ話して、それを楽しめる関係って素晴らしい。 公園も夕方しめるらしく、終わりの時間を告げられた。 車に乗り込む前に、 実は、虹彩が見えてたんだよね〜 と、言われたので、「なんで教えてくれなかったの〜!」と言っていたのですが、 隣の車の窓に虹が映っているのを見つけたその友達が、 「空!虹!目的果たせて良かった!」 と、ミラクル天気のお裾分けをしてくれた。 でもね、これ、逆さ虹といって、ちょっと変わった虹だったのです。 なんだか不思議な天気を堪能できた旅でした。 三輪山はまたリベンジです。 その時もザワザワじゃないことを祈ります。

熊野の旅1

コロナで大騒ぎの最中。 全国がコロナで一斉自粛にかかる直前。 そんなこととはつゆ知らず、三輪山に登ろうということで、奈良エリアに行ってきた。 車旅は結構遠い。 一気に道中を制覇するのは難しいということで、サービスエリアに車中泊を試みたのですが、自分の土地で車中泊はあるけれど、外で電源なしの車中泊は初めてだったので、まず何が大変だったかというと、トラックのアイドリング音。 あまりにうるさいから、「トラック、アイドリング、うるさい」とか調べてみたところ、どうも冷凍車はエンジンを止めることができないらしく、終日夜だろうが朝だろうが、エンジンつけっぱなしなのだとか。 今までが極楽のような車中泊だったので、これはいかんということで、下道に降りて道の駅を探す。 くらい。くらいよ。 見つけた道の駅は、すごく静かだった。 ビクビクしながらカーテン閉めて寝ていたら、車の中を覗くおじさんたちの声。 「寝てんじゃね? 東京のナンバーだし、寝てんじゃね。」 怖いから寝てるふりしました。 道の駅は、地元の人が警備をしているようです。 他のところでも、少し注意が必要かもしれません。 でも、静かなので犬共々そのまま就寝。 朝起きたら目の前にはどでかい水車がありましたw。 なんとも清々しい。 ちょっと高度が高いのか、肌寒かったもののお散歩にはちょうどいい。 鳥の声も耳に清々しい。 そんなこんなでいざ出発。 最終目的地は三輪山ですが、ずっと念願だった熊野の那智の滝や熊野大社、天河神社などを巡ることに。 なんだか不思議な天気。 行く前から「雨」とは聞いていたので覚悟はしていたのですが、伊勢あたりで激しい豪雨。 それも、前が真っ白で見え無いくらいの激しい雨。 握るハンドルが恐怖な真っ白雨。 今日はお参りいけないかもなぁ。と、思うぐらい。 と、思っていたら、スコッと現地に着いたら雨は止み、空が晴れてきた。 ラッキーです。 そして、雨のおかげか、現場は人っ子一人いない。 降りた先にあった素敵石にお参りして、いざ那智の滝! 素敵! 素敵です! 一本滝は男滝と言われることが多いですが、この滝はたおやかな若い男性でもあり、凛々しい女性のような、中性的な感じがします。ハラハラとたなびく水しぶきが本当に美しい。 その近くにある那智大社へお参りに。 その脇に、神木の楠があるのですが、枝ぶりも素晴らしい。 本体に空洞があるらしく、胎動巡りができるので、入ってみました。 そこはトトロの穴でした! そっくり! ご神体の喜びより、トトロの穴に入れた感激で一人大騒ぎ。w そんなこんなで、お参り中は雨が止み、傘いらず。 まだ時間はありそうだったので、熊野大社を目指す。 自分の氏神さんが熊野大社なので、いつか本宮に行きたいなぁと思っていたので、これも念願叶った感じ。 その近所にもゆかりの神社や土地があるので、見て回ったのですが、 その昔、熊野大社は三つの河の交わる中洲にあったらしい。 イシス神殿といい、江ノ島といい、自分のゆかりのある神社は、なにやら水と関係した(囲まれた?)ところが多い気がする。 これまた、まだ時間がありそうなので、位置的に戻るのはアホっぽいので、そのまま天河神社へ。 今のところ、道中の途中は雨が降るものの、お参りの際中はすべて雨が止む。 素晴らしい。 たまにすごい厚い雲の隙間から、絶妙なスポットライトのような太陽が、ピンポイントで降ってくる。 素敵。 ここも、道中雨だったのが傘がなくても大丈夫な天気になり、天河さんの階段を登り始めたら階段の先から太陽がサァ〜っとさしてきて、神秘的。 前にきたときも、不思議天気を経験していたものの、今回も何やら天気との不思議シンクロがありそう。 (ちなみに、前回は雲海が出て、なくなり始めるその川の上に、大蛇のように白い雲が川に沿ってうねうねしていたのを見られました) そして、前回きたときは気がつかなかった?のですが、天河神社のどこか?で、水があふれたときに見つかった文献から、そのそばにある高倉山も実はご神体だったことが判明したらしく、今は「禊殿」として祀られている。 そちらも参拝。(ちょっとわかりずらく、途中迷うw) 帰り際、山の上が気になって見てみたら、ん?! すごく大きな岩がある? 日本はここかしこに岩がご神体の神社ありますが、これももしかしたらご神体では? (写真だとわかりずらい) そして、この日はここで打ち止め。 その先にある以前に行った温泉を目指す。 が、よりによって、定休日…。チーンです。 しょうがないので、その近くのスーパー温泉目指す。 温泉入って、道の駅にで宿泊。 明日は、いつもお参りに行っている、生丹売姫神社に行くのでした。

ホロスコープって

ホロスコープに触れ合うようになって、ざっくり2年(いやいや3年?)。 相変わらず難しいなぁ〜と思いつつ。 自分や家族、友達、そして、テレビの芸能人の方がテレビに出ていて「この人の人生ど〜なんてんの?!」と思った時に、その方のホロスコープを開いてみる。 芸能人の方は大体のことは載っている。ウィキありがとう。 一般的な方より、芸能人の人の方が、星回りが顕著でわかりやすい。 表に出る人で、持っている独特の星回りがある。 それは火の成分だ。 そして役者の人はどちらかというと、海王星力が強かったり。 その立場で必要な「エネルギー」とでもいうのかしら? あ〜〜だからそうなのね。と、ひどく納得する。 自分みたいな一般の人は、ある意味、焦点が絞りづらい。w あと、面白いのが、「家族」。 性格的な遺伝、外面的な遺伝、とか「DNA」みたいに、ホロスコープでも不思議に同じ要素を持っている。 家族のホロスコープを重ねてみると、兄弟姉妹で、この部分が親と同じで、 喧嘩するのはこの部分なのねとか。 いつか、納得して見たり使えるようになって、人に伝えたり、見てあげられればいいな。

心理占星術的解読2(支配星のネットワーク)

両親軸ですでに傷があるのですがw。 支配星のネットワークでも、さらにそこに突っ込んだ原因を探ります。 海王星(オポジション)土星5 遠い父親 冥王星(スクエア)金星2.3.10 自分の自己価値、相手の自己価値への問題、 冥王星(スクエア)火星8.9 自分がこうありたいと思った方向を、ことごとく曲げてくれたし、 行かせてくれたようで実は全否定だったり… それに争うことがままならなかった自分の不甲斐なさが、本当に今でも悔やまれる。 火星(コンジャクション)金星に冥王星□ さらに上記が強調される 天王星(スクエア)月11 強い安心安全の居場所・愛情の欲求が感じられる これに関しては、最近やっと「あら、これ?」という「安心・安全」のキーワードとして手元に来ています。 第4ハウスの海王星 家庭というものに対する不在感 第1ハウスの冥王星 自己像に対する信頼感の不在 第10ハウスの土星 仕事の選択に与える影響 月(コンジャクション)ノード軸 傷とも受け取れるし、大衆という意味合いにも取れる。 幼い頃は、どうしても「大人」という「法律」で縛られていたのですが、 ある日「それ間違ってるよね」そして「本当は自分の人生を選択する自由があった」ことに気づいた。 自分にとってのすべての選択が、知らない間に刷り込まれた「親のエゴ」だったことにも驚愕した。 (エゴエゴおばけに立ち向かうのは、結構骨が折れます。) 海王星(オポジション)太陽 私がもし王様だったとしたら、 海王星がざっくり太陽とオポジションなので、王座は得られません。 でも、別に関係ないからそれはそれでいいんですけど、月の欲求を満たすことで、 その力は太陽に反映されることになるのではと思っています。 実のところ、冥王星と太陽がトラインで、ノード軸がスパーッと真ん中を貫いている。 カイトができあがってたりします。 冥王星問題が自分の中で解決して、それがノードの軸へと流れればいいなと。

2020年覚書

しいたけ占いが大好きなのですが、今年もきました。2020年版しいたけ占い! で、覚書(自分のみ) 2020年上半期のあなたは 「自分が付き合っていく人」をちゃんと見ていきたいし、審査していきたい 「今後も付き合っていく価値がある人なのかどうか」を見極めたいときに、 「私の心尽くしがわかるかどうか」がひとつの大事な判断基準 そうそう。 楽しいのテンションが違う人、祭りを台無しにされると隠密に切れるなw。 去年から、「一生付き合うぐらいの覚悟の友達や知り合いを探している」感じがして、その度に、ちょっとカマをかける?みたいな挙動をしているかもしれません。 牡牛座は「目の中に入れても痛くない大好きなものシリーズ」を12星座の中でも特に強く持っている人たち 私の場合、蟹座も入っているので、陣地に入っている人でも、「違う!」ってなったらサクッと外に出してしまう冷徹さがあるのでちょっと注意 2020年上半期の牡牛座のキーワードは 「美意識を持った他人に出会っていくことで、自分の美意識をさらに磨いていく」 100人中2人ぐらいは面白がってくれるかもしれない」。 自分で決めた「そのふたり」に対して自分のすべてを捧げてみる。 マイノリティー。 儲け度外しの動きをしていると、人様からよく「道楽よね〜」とか「趣味よねぇ〜」とかはんなり意地悪を言われますが、作るって誰かの満足を満たすためにあるんじゃない気がします。 縄文土器を見た時、作った人の「自己満足」と、それを見て驚いたであろう人たちの「賞賛」が感じられて、私も多分、自分が一番自分の作ったものを楽しんで褒めて、それが他の人も楽しめればいいんじゃないかなぁと思ってます。 2020年は、おバカの花火をドカンと打ち上げて、目一杯楽しみながら楽園に向かって突き進みます!

アナと雪の女王2

ディズニーはなぜ歌うのだろう? 若干自虐的なプロモビデオみたいなクリストフのシーンは、 それを物語っているのでは?W ってことは置いといて。 アナと雪の女王2を観てきました。 本当は3Dを期待していたので、今回2Dでどこまで楽しめるのかしら? と思ったのですが、 個人的にはとても驚くシンクロが多くてびっくりしました。 スピリチュアル界隈では、「水は情報を持っている」ということは囁かれていたのですが、 まさか、アナ雪でそれがクローズアップされるとは思っていませんでした。 そしてこのところ、私の目の前に現れる「ケルト」的な情報がふんだんに散りばめられていてもはや 「ケルト方面、行くしかないのでは?!」という気分。 映画の中に出てくる四大元素「火・水・風・土」。 錬金術の要素ですよね。 魔法の根元はやっぱり「自然」なのですよね。 そして、その元素をまとめる中心に、もう一つ重要な要素がある…。 それこそが、エルサ自身が持つ力(「意識(愛)」) もともと、古代文化は自然の力と共にあったし、 それが、「魔法」だった。 そして、魔法に恐れをなした人間の「恐怖(畏怖)」から分離が起こった。 あの映画の女王二人がなぜ二人なのか?も、その分離の融合という意味で重要なのかもしれない。 さらに、全然関係ないところで、映画の予告で来年?ピクサーとディズニー合作の 「onward」(日本タイトル分からず)で言っていた内容に引っかかる。 昔は魔法が当たり前だった、今は魔法を忘れてしまった人たち(エルフ)が 魔法を使ってお父さんを復活させる。みたいな話? 共通内容として、 「昔はみんな魔法が当たり前だった」 けれど 「今は忘れてしまっている」です。 持論として、量子力学的にも、今科学で解明されていない「意識」のエネルギーなるものが気になっていまして、 この辺りあながち「魔法なんじゃね?」と思っている次第。 オラフが「永遠に変わらない」ってことはどういうこと? というようなこと言ってたと思うのですが、 オラフが魔法の力が弱まっていなくなっちゃうときに 「今わかったよ。永遠に変わらないものって『愛』なんだね」 って、物質は変化してなくなっても、意識はなくならない。 ましてや、水という存在に記憶があるのならば、すべての命は生きていることになるのですよ! すごくない?! って、スピリチュアル角度で観ない人にとっては、ど〜でもいいことかもしれませんが、 そう考えても良いのかもなって思った、個人的には久々にどど〜んときた映画でした。

人生全てわかっちゃったら面白くないよねって話

本物のスピリチュアルの人を見たり知ったりしてしまうと、 イヤイヤそれ無理っしょな心持ちになる。 もし、自分の全ての人生が走馬灯のように分かってしまったとしたら、 その内容いかんにして、推理小説で言う所の「落ち」が分かった状態で本を読み進めなければいけないなんて… 耐えられないw ましてや、相手の全てが分かっても、どうすることもできないなんて…。 先日聞いたハワイの先住民族のスピリチュアルの最高峰のおばさまの話。 その方は、それぞれの人のそれぞれの人生が手に取るように分かるけれど、答えをダイレクトに言うのではなくて、これから先に起こる色んなことに対処して、力強く越えられるようにサポートしてくれる方だ。 でも、その部族では最高峰の長を選ぶ為に、イニシエーション(死にも匹敵する儀式)を行って、目覚めた子(生還した子)を長にするのだそうで、多分落ちたら死ぬよね的な滝壺の上から、3歳ぐらいで落とされて、生還した子がなるそうな。 そのおばさまは、その滝壺に落とされた時に自分の人生の最後までを走馬灯のように見た上で、受け止め生きる道を選んだ。 なんでもわかるからこそ、自分の娘さんがレイプされるのを分かっていても、母親なら子供が傷つくことを回避したいはずなんだけど、その一連の流れが大きな人生の流れの中で全て意味があることを分かっていて、そのレイプした男性も何故そのようなことをしなければならなかったのか、そのレイプで生まれてくる子もその母と父を選んで生まれてくることも分かっていたから、受け止めてサポートする立場を取った。 そしてある日、そのおばさまは子宮がんにもなった。 大事に大事にそのがん細胞を育てて、もうこれで限界!ってとこまで育てた。 本当はその部族は西洋医学の治療を受けてはいけない約束があったけれど、それはそれ。 そのおばさまは、腹部の癌の状態を逐一精密に絵を描いて、お医者もびっくりの精度で知らせて手術を受けた。 でも、手術は一切の麻酔なく、そして自分がその手術を逐一見られるように寝た状態ではなくて起きた体勢の状態で行われた。 歯に噛み締められる棒を咥えて痛みを堪え、無事手術は終わった。 その間、おばさまは世界の全ての女性の癌の痛みを癒す為に、祈っていたそうだ。 術後は病院にはもう用事はないからと、さっさと帰って部族の治療で癒したそうだ。 人間だったら、痛くないほう、怖くないほう、悲しくないほう、を選びがちだけれど、 そこから得られる経験の大きさってきっとやっぱり意味があることなんだって思えると堪えられる。 「神様はその人に耐えられるだけの痛みしか与えない」 そして、「誰かと自分を比べて優劣をつけることが大切なのではなくて、それはそれぞれの「個性」だ」 って聞いたことがあります。 何かしら今の自分がここにある意味。 すんなり見つからない。 だから人生って面白いんだろうね。

誰かが誰かのために世界を背負う必要はなくなった

映画「天気の子」を観てきた。 のっけから高校生の若かりし頃に通った代々木の予備校の横断歩道の廃墟ビルの屋上に、 この映画のテーマの鍵となる神社があったw (今どうなってんのかなぁ〜?) うぉ〜〜!懐かしい! そこかしこに、高校生の自分がオーバーラップされる。(こんな劇的なことはなかったけどw) で、この映画を見る前の予告編に出てきたセリフで、 「僕らは世界の形を決定的に変えてしまったんだ…」 が、気になって気になって、超気になってたのですが、ようやくわかってすっきりしておりますw どこまで「決定的?」なのかが、私の中でのネックだったのですが、 そこに関してはうむ。想像通りの範疇に入っておりましたw でも、その「変えた」という選択肢は、 「個人を救う」 のか? 「世界を救う」 のか?という選択の上に成り立っていた。 今までの世の中の常識だと、肩肘張って「世界を救う」ヒーローがたくさん居たけれど、 あら、もう肩肘張らず、誰かの思いを背中に、肩に背負わず、気負いなく「個人」で居て良いのね。 って思いました。 この映画では、世界を救うっていうより、一人一人の笑顔を取り戻したくて、 その対価で人柱になって青空を取り戻したけれど、誰一人としてそのことに気がつかない。 君一人がその犠牲にならなくてもいいんだよってこともあったのかもしれない。 そう考えたら、この前見たアベンジャーズも、世界を救う!とか言いつつも、家族だったり恋人だったり、 個人の方に執着していたよな〜と思った。 ちょっと前の私も、誰かのために役に立って生きたいみたいな、ちょっと人の人生も請け負います!と、 肩肘張りまくって頑張ってましたけど、 もう、それはナンセンスな時代になってきたんだろうな、と、少しばかり安心しております。 もし、究極の選択で、愛している人と、世界を天秤にかけて、核爆弾押しちゃったとしても、 「気持ちわかるぅ〜」的に誰も文句は言わないかもしれないなぁと。 (いやいや、押しちゃまずいですけどね。) それだけ大切な物ってのが、ミニマムになって、その延長線上に「世界」が見えてきているのかもしれない。 誰一人、愛したことのない人が、世界を愛することはできますか?ってね。 それにしても、IMAXシアターの画面は大きくていいね。 視界の隅から隅まで映像なので、臨場感あった。(細かいとこ観られんかったので、レンタル出たら見直しねw)
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