愛を運んでくれた人

「ヒト(人)」という表現は間違っているかもしれませんが…。 先日、我が家の愛犬が天国に旅立った。 あまりにも突然で、いろんなことが重なって最後の引き金が自分だったこともあって、ちょっとPTSDみたいになってしまった。 動物は、そばにいる時はその存在自体が当たり前すぎて、彼らがどれだけいろんなギフトを私たちに送ってくれていたのか全く気づかない。 特に、どれだけ愛を送ってくれていたのか、いなくなって気づいた自分を情けなく思った。 死というものが、円満なことは少ないのかもしれない。 こっそり、ひっそり亡くなる子もいれば、うちみたいに腕の中で劇的に亡くなることもあるだろう。 どんな亡くなり方でも、亡くなってしまうと「あーすればよかった、こーすればよかった」と、後悔しか頭に浮かばない。 その後悔や、悲しみから逃れようと、体がすっぽり記憶の空白を作ってしまった。 そんなこんなで泣けないということが、余計懺悔の気持ちに拍車をかける。 涙は出ないのに、ひどく悲しい。 こんなにも、愛していたし、愛されていたこと、彼が居たことでどれだけ豊かな時間を過ごせていたのか。 大変なこともたくさんあったし、怒ったこともたくさんあったけれど、あまりある素晴らしい心の経験をさせてもらったと思う。 でも、これでいいのかしら…? こちらの世界の人が悲しんでいたら、旅立った人たちは、きっと悲しむだろう。 でも、そんな簡単に「悲しい」を手放すことはできない。 「悲しい」ってなんだ? とあるサイトに 悲しみは、無くなったものへの感謝の気持ちを伝えるためにある と、書いてあった。 だから悲しめるということは、それだけ想っていた、感謝していたということなのだ。 だからこそ、悲しみという方法で愛や感謝を伝えるのではなく、悲しみを手放した上で前を向いて感謝や愛を伝えればいいのだと思ったら、少し肩の荷が降りた。 悲しいをゼロにはできないけれど、悲しくないってこともできる。 最後の最後に、凄いことを教えてくれたうちの愛犬に、これからも愛と感謝を送りたい。 少しずつ、元気になろう。 そして、また会えるかもという希望を込めて。 ありがとうと伝えよう。 追伸: 悲しい時には思いっきり泣いた方がいい。    泣かないでいると、心の奥に詰まった悲しみという石ころが、ドンドンたまる。    感情は解放することで少しずつ癒えるように思った。    今はただ、泣いて悲しみを手放して、力に変えよう。
en_USEnglish
ja日本語 en_USEnglish