何かを作るとき、自分だけで完結する仕事と、人と関わらないとできない仕事がある。

自分だけで完結の仕事も、最終的には誰かが関わってくる仕事。(売ったり、サービスだったり)

でも、人と関わらないといけない仕事は、それぞれの「考え」の違いをどれだけ同じ意識に持ってくるかが難しい。
(コストとか制限もかかってくるので、それなりの限界もあるけれど、その中での越えるべき上限)

勝手に相手の「考え」だと思って動いて、実はその人の「考え」とは違うことだってある。

ましてや、クライアントと仕事の受け手の立場だと、立場の上下が存在して、最後の一手でぐるりとちゃぶ台をひっくり返されることもある。

でも、それはクライアントがその時、それをやることで「改善される」とか「よくなる」という思いでひっくり返した時は、結果として出来上がった物事で、お互い納得ができる。(お偉いさんの意見でくつがえった仕事は、大概うまくいかないけれどw)

それが逆でもそう。

クライアントがどんなに熱く「いいもの」を望んでも、その仕事の受け手のテンションが低かったり、無駄に動きたくないとか、一緒にいいものを作ろうという意識がなければ、いいものはできない。

いいものを作る為には、引き出しの多さ、少なさも関係しているかと思う。

最終的な目標は、最初はエベレストのように高いかもしれない。
その度に、壁にぶちあたり、最終的には近所の山レベルになるかもしれない。
でも、その中で最善の対処を臨機応変に進める中で、小さい山でも美しい小さな草花を植えることで、エベレストのように美しい山の景観を作ることはできるはず。

一番大切なことは、やっぱり人とどれだけコミュニケーションが取れる関係かということ。

言われたことをそのままやりました。的な人がいたとする。

出した答えは確かに「正解」。

でも、それは料理だとして、同じ食材でも「おいしくなあれ」と思った人と、「作ればいいんでしょ」と作った人との味の違いぐらい差がある。

言われた通りの一歩先が、本当は「正解」なのではないかしら?

必要以上に答えに媚を売る必要性もなければ、ただちょっとだけ先を見ながら「おいしいもの」、「楽しいこと」を作り出せるのは、相手のことをどれだけ「思っているか?」だと思う。

自分がこれまでやってきた仕事のスタンスとして、多分私は相手の「意図」を汲み取って、相手の目線で仕事をしてきたと思う。
当たり前だったけれど、本当にこれができる人がものすごく少なくて、自分のことしか考えられない人が多いことに気がついた。

絵心のないクライアント・イメージ先行で具体的な意見の出せないクライアントと、ものづくりバリバリの人との仕事は全然違う。
出来上がるものへの最終形態の上限の伸び代は、ものづくりの人との仕事の方がよりクオリティーが高くなる。

そして、もし、間違っていたら、「間違ってます」、こうした方が良い時に「こうした方が良い」と言える関係。

でも、言ってくれる人はものすごく少ない。
だから、つい、人に仕事を頼むのが「面倒」になって自分でやってしまう癖がある。

相手への信頼は、「言ってくれるか、言ってくれないか」が一番かもしれない。



技術的な成長は、やれば伸びる。
でも、考えや心の成長、関係性を改善する技術は、人それぞれ成長の速度が違う。

明らかに、「わかってないなぁ」という人と仕事をする時に、粘り強く「こうしてほしい」を伝えることは、エネルギーが1.5倍増しで疲れる。

あと、適当に言葉を話す人も、その言葉の無責任さに驚愕する。

汚れてたから「掃除します」と言ってたのに、いつまでたっても掃除しない人みたいな。。。(そして、やったら盛大に威張るとかw)

どの仕事、どの家庭、どの人間関係でも、やっぱり突き詰めると

「利己」なのか「利他」なのか



自分のことをおろそかにすることではなく、関係が生じた時にお互いの方向からの目線でより良き選択ができること。
その部分、とても大事だなぁと。

リフォーム案件で、多分自分が言っていることを「そのつど変わるな…」と、思われているのだろうと思ってます。
でも、逆に全体の中で、今そこを変更しないと「まずいな」という考えで言っていることは確か。

自分の中で確証がないこと、選択肢があるならば、立ち止まって考えたい。

自分が理解してできればもっと早く仕事が進むのになぁ…。と、
人に何かをお願いすることの難しさを感じる今日この頃。
ja日本語
en_USEnglish ja日本語