久々にハウス食品アニメ 「小公女セイラ」を見直しました。
子供の頃観た時も、落ちぶれた主人公セイラへの対応がひどいなぁと思ったものの、今のほうがより「お金」の恐ろしさを感じましたw。

セイラという人物が、お金があった上で何不自由なく過ごし教育を受けたからこそ、人としての余裕があったのでしょうが、お金があってもそれを妬んで意地悪をしたりするお金持ちの子供もいるわけで、その違いって何でしょう?

それは、ひとえに「教育」の部分かと。

全員が全員、お金があろうがなかろうが、いい人はいい人だし、悪い人は悪い人で、
その話の中で救いの手をさし延べる人たちはたくさんいた。

その分かれ目は、「人の境遇に心を寄り添えることができるかどうか(イマジン)」だ。

映画「ジョーカー」も、お金にまつわる分断で、争いは起きるわけで、
(実は怖くて観てませんけど)貧しいとて、誰か一人でもその境遇に寄り添うことができれば、
救いはあるわけで、お金持ちでも実は寂しく心が飢えているからこそお金にしがみついている人もいるわけで。

自分でまず、自分を認識し自覚し、救えるかどうか。

そこから世界は見えてくる。

この手の子供のアニメシリーズで、最終的にこの小公女セイラは「救い」があった。
死にそうになっても、自分の正しい道を貫き通した。だからこそ、その手にしたお金が生きてくる。

フランダースの犬は、辛かった。。。
でも、大人になってわかるのは、幸も不幸も、希望も絶望も、生きるも死ぬも、最後まで生き抜いた時に、「命とはなんぞや?」の結末が待っているのだと思いました。

子供向けだからといって、話をハッピーエンドで終わらせてしまうことの脆弱さ。

「何故?」 「どうして?」 

を突きつけられて、考えること。
これは本当に大切なことなのだなぁと、すべての人間、映像、文章、etcに散りばめられた「きっかけ」に興味津々、感謝感激な今なのです。

関係ないですが、セイラの話の後半戦、隣の召使いのインド人の人が、2mくらいの窓から降りたり登ったり、不法侵入も去ることながら、水戸黄門の飛猿ですか!?くらいのジャンプ力に驚きました。

インド人はターバン巻いてるとか、「ナマステー」とか、それは違うのでは? とか、大人目線のツッコミは、子供には秘密で。
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